どの地方のものであっても、民謡というものがその地方の風土、生活、歴史の産物であることは言うまでもない。が、とりわけ奄美大島の民謡「しまうた」においては、この地方の置かれた地理的環境、気候、歴史、民俗を抜きにしては、島唄そのもののが理解できないほどの深い結びつきが見られる。
奄美大島は、大島本島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の5島からなる。大島本島は鹿児島〜沖縄間のほぼ中間に位置する。この地理的関係が、奄美大島の歴史に決定的な意味を持った。(地図参照)
旧藩政時代、薩摩藩にとって琉球侵攻と支配のための道の島々であった奄美諸島は、「道の島」と呼ばれていた。それは、薩摩藩による苛酷極まる圧政の歴史と重なってくる。
奄美諸島は、13世紀半ば頃から沖縄に琉球王朝が成立していく過程で同王朝に朝貢し、やがて完全に服属することになるが、それ以前はさらにのびやかな時代があったことを島の伝承は語っている。
慶長14年(1609年)、薩摩藩は、道の島を経由して一気に琉球に侵攻した。これが奄美の受難の歴史の幕開けだった。
やがて、奄美に特産する砂糖に目をつけた薩摩藩は、ひたすら収奪に乗り出す。封建制下でも認められる最小限の自由さえ奪われ、ただ砂糖製造のための奴隷の島と化したのである。
このような苛政と圧迫の中から、民衆の呻き声として多くの島唄が生み出された。
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