管理人の日記です

前の日記[2003年後半]


唄遊び  2004年6月27日

昨夜は阿佐ヶ谷グルくんで毎月第4土曜に開催されている唄遊びの会に参加してきた。この数ヶ月間ちょうど第4土曜にライヴやら他の用事が入ったりしてなかなか行けなかったのだが、久々に参加してみると、やはり唄遊びはライヴとひと味違った楽しさがある。同じ一つの唄でも参加者それぞれが自分の集落や自分の師匠の唄い方で唄うので非常にバラエティに富んだ唄になる。楽しいし、勉強にもなる。これからも都合の合う時は積極的に参加したい。いつまでも続けて欲しい会だ。


プロバイダ  2004年6月21日

ISDN接続の遅さににいい加減しびれを切らし、先月わが家にも光ケーブルを導入した。東京電力のTEPCO光だ。そこで今までこのサイトがお世話になっていたプロバイダ『bekkoame』は光通信に対応していないため、新たにプロバイダを選ばなくてはいけなくなってしまった。「bekkoameはハッカーの巣窟」だとか、巷ではいろいろと言われているが、無条件でHPが100MB使えるのは魅力だった。今回私が依頼した代理店は6つの中からプロバイダを選べるのだが、どこが良くてどこが悪いなんて説明書きだけ読んだって分からない。面倒だからあまり考えずにSo-netに決めてしまった。これがいけなかった。So-netはHPは10MBまでとbekkoameの僅か十分の一。しかも追加で5MB増やす毎に105円が毎月かかる。このサイトの総容量が大体50MB弱だから毎月800円も余分に支払わなくてはならない。あぁ、バカらしい。デメリットはそれだけでなく、やたらと長いURLやメルアドなど、どう考えてもあまり良い所がないのだ。
と言うわけでまたプロバイダを変える事にした。しかし少しタイムラグが発生する。今月いっぱいがbekkoame、来月から1〜2ヶ月の間はSo-net、その後に新規プロバイダ(ASAHIネット)とコロコロ変わるので、転送URL(http://www.kikya.pro.nu)をお使いの方は大丈夫だが、bekkoameのURLは来月は使えないのでご了承いただきたい。またここでインフォはする予定である。


訃報  2004年6月11日

今朝早くに知人からのメールで狂言師・野村万之丞氏が亡くなったと知らされ、たいそう驚いた。氏とは2001年の『天守物語』で出会って大変お世話になり、プロの厳しさを嫌というほど教えられた。しかし、あの豪快で明るい万之丞さんが亡くなったなんて信じられない。まだ44才だったという。
故人の冥福をお祈り致します。


歯が!  2004年6月3日

今日、歯医者で抜歯をした。数ヶ月前から虫歯になって痛んでいた左上の親知らずだ。
痛くて痛くて仕方なかったのに数ヶ月間も放置しておいたのは、単に抜くのが嫌だったからである。
私の場合、病院の注射や点滴などは子供の頃から別に怖くも嫌でもなかったのだが、どうも歯医者だけは今でも苦手で、特にあの歯を削る「キュイ〜ン」という音を聞くだけで体中に力が入ってしまう。しかも親知らずの抜歯に関してはちょっとしたトラウマもある。
あれは確か15年ほど前、当時会社勤めをしていた私が会社の近くにある歯科に虫歯の治療で通っていた時の事。その周辺はオフィス街という事もあってかたくさんの歯科医が軒を連ねていたのだが、私は「いつも空いていて待たなくて良い」という理由だけでH歯科を選んでいた。先生は白髪頭の老人で話し方などちょっと下町っぽいところがある庶民的な人だ。何度か通ううちにこの歯科で右上の親知らずを抜いた方が良いという話になった。いつも予約の時間に行くと、受付にも診察室にも誰も居らず、奥の休憩室らしき部屋からTVの音が漏れている多かったのだが、その当日も例の如く奥の部屋から「のォこった〜、のォこった〜!」と大相撲中継らしき音が聞こえてくる。「すいませ〜ん」と大声で呼ぶと奥から先生が出てきた。「おぅ、来たか。今日は体調はどうだ?ん、元気そうだ。大丈夫だな!がははは♪」...こんなアバウトな問診の後、診察台に座るやいなやぞんざいにブスッと歯ぐきに麻酔を打たれ、効いてきたかな〜と思うが早いか、ペンチでぐいぐい回されて乱暴に引っこ抜かれた。きしむ音と痛みが脳天を貫き私は気絶寸前。生きた心地がしなかった...。後で聞いた話だが、その先生は軍医上がりだったようだ。どうりで手荒な訳だ。
その出来事以降、抜歯が非常に怖くなってしまったのだ。しかし、あまりにも長期間放って置いたために親知らずに大きな穴が空いてしまい、また激痛にもいい加減耐えられなくなってきたので、重い腰を上げたのだった。結果から言うと、今日抜いて良かった。今お世話になっている先生が上手なのか、この15年で歯科の技術が向上したのか、よく解らないが、痛みはほとんど無かったし、脳天に伝わるきしむ音もそれほどではなかった。
みなさんも歯医者は早めに行きましょう。


耳が!  2004年5月26日

先日、草野球仲間と三人でファミレスに入り、くだらない事を何時間も喋って深夜に帰宅した。ここのところ、なんだかんだでずっと寝不足が続いていたせいもあり、四十を目前とした我が身にはかなりしんどかったのだが、久しぶりに高校生に戻ったような感じがして、話の内容も面白かったのでついつい長居をしてしまった。そしたら案の定の体調不良。翌日から右耳に違和感を感じ、徐々にそれが増して聞こえなくなってきた。痛みもある。昨夜は早めに就寝したので少し軽減されてたが、このまま快方に向かってくれるか不安である。やはりもう無理をしてはイケナイ年齢なのだな、と痛感してしまった。


わぃわぃライヴ  2004年5月22日

昨夜は結ま〜る恒例のわぃわぃライヴに参加してきた。基本的には悦子ママの唄う沖縄民謡を私がギターで、奈良氏がジャンベでサポートをする形だが、後半はいつも「何でもあり」になる。最近私はこのわぃわぃライヴで「何か1曲歌って」と言われると往年の昭和歌謡を歌う事にしている。お客さんにウケるからだ。前回は加山雄三の「旅人よ」を歌って盛り上がった。さて今回は何を歌うかななどと考えていると、私の旧友であり最近活動を再開したハードフォークユニット“うずまき”の相方・Lee氏がお客さんとしてお店に入ってきた。グッドタイミング!と思い、彼を指名。山口百恵の「イミテーションゴールド」を歌ってもらった。思惑通りお客さんは大ウケ。“うずまき”の宣伝にもなった。(なったのかな)


横浜高島屋1階:左3名が沖縄チーム、右3名が奄美チームゆかた祭2  2004年5月16日

昨日、横浜高島屋の『ゆかた祭り』に参加してきた。会場は百貨店なので開店前にしかリハを出来ないということで朝8時に現地集合。今まで音楽の仕事でこれほど早い集合時間だった事があるだろうか、等と考えながら電車で横浜へ。う〜む、眠い。到着後すぐにリハ。リハが終わると一回目の出番まで3時間以上も間が空いてしまい、「映画でも見に行くか」とか「女性ならこういう空き時間にエステに行くんだろうな」等と考えつつ、弁当を戴いたりメンバーと雑談をしていたら、あっという間に出番が来た。
まずは六階の浴衣売場からスタート。お客も多いしTBSやらテレビ東京などのTVカメラまで来ていてたいそうな賑わいである。始めは一番最初の曲なので「朝花節」から始めることにした。すると1節目を唄い終わらないうちに女弦がプツンと切れてしまった。一瞬パニクる。とりあえずこのフロアは何とか残った二弦で凌ぎ、当初は1フロア毎に奄美チームと沖縄チームが交互に演奏する予定だったところをひとまず五階から下は沖縄チームに任せ、続けて全部演奏してもらう事にした。そしてすぐスタッフに早口で「楽屋にある小物の入ったポーチを大至急取ってきて欲しい」と耳打ちし、何事も無かったかのような顔をして行進を続けた。予備の三味線はないので行進を続けながら張り替えるしかない。もちろん歩きながら弦の張り替えなどやった事はないが、一階ミニステージに着くまでに張り替えなければ段取りは台無しなりみんなに迷惑をかけてしまう。弦が手元に届いてからは無我夢中で、どこをどうやって弦を張り替えたかよく覚えていないが、何とか一階に到着するまでに女弦を張り替えた。そして予定通り一階ミニステージで「安里屋ユンタ〜チンダラ節」や「八重山六調〜奄美六調」などの掛け合いをこなし、再び各フロアを練り歩きながら演奏しながら六階に上がっていった。この行程を13時と15時の二回行ってイベントは終了。仲間からの連絡で知ったのだが、早速夕方のニュースでこのイベントの模様を放送していたらしい。私も23時のニュースと深夜のニュースに映った自分の姿を見る事が出来た。
週末の横浜という事でお客さんも多く、その中でも小さな子供やお年寄りがニコニコ笑いながら、中には手拍子をしてくれる人もいたりして、やっている側も非常に楽しいイベントであった。


ゆかた祭1  2004年5月13日

明後日15日は横浜高島屋で開催される浴衣ショーに参加する。参加すると言ってもライヴをやるのではなく、私を含む奄美シマ唄チーム3名とK氏率いる沖縄民謡チーム3名の合わせて6名が浴衣を着用し、百貨店側が用意した浴衣モデル数名と共に各フロアを練り歩くといった趣向の物である。正面玄関前の特設ステージで少しだけライヴ的な演奏もやるが、基本的には練り歩く時間の方が圧倒的に長い。今までいろいろな場に出させて戴いたが、歩きながら演奏するのは初めてである。これが結構弾きにくいし、唄いにくい。
まぁでも何事も経験だから何か得る物はあるはずだ。


“ならまち” 2004年5月8日

先日の大阪・奈良ツアーの二日目、空き時間が結構あったので早起きし、朝食前に宿泊地近くの<注1>古墳を一人で散歩してきた。
散歩のあと朝食を食べ、午後には師匠たちと奈良町を散策してきた。古い佇まいが何となく鎌倉の町並みを連想させる。(奈良の方がずっと古いか...)
その時に奈良町でフラッと入った一軒の古着と雑貨を扱っているお店で松岡のクラシックギターを発見。表板には多少傷があったがちょっと弾いてみると音が良い。同行していたW氏も「お?良い音するねぇ」と言っていた。。そして何より“安い”のだ。
しかし、ケースが無くてむき身のため帰りの運搬方法がなく、また、手持ちのカネもあまり無いし、自宅に今以上ギターが増えたら置き場所に困るし、買おうかどうしようか散々考えてやめた。が、そのあと、沙弥音のギタリスト・じろ君にそれを話すと「そりゃお買い得ですよ」と言われ、今はすっかり後悔している。

解説:
<注1>ウワナベ古墳とコナベ古墳。どちらも5世紀に作られた前方後円墳。なんとこの2つの古墳、誰が埋葬されているのかまだ解っていないらしい。


わいわいライヴ 2004年5月1日

昨夜は五反田・結ま〜るで行われた『わぃわぃライヴ』に参加してきた。いつもは悦子ママに奈良氏か私のどちらか、もしくは二人が加わるのだが、今回は私と恭子嬢が加わって沖縄ソング&奄美シマ唄と言った形のライヴとなった。ライヴはママがソロで沖縄民謡を数曲、3人で沖縄POPSなどを数曲、そして奄美シマ唄も数曲、最後は奄美の六調と沖縄のカチャーシーの掛け合いでご来場の皆様には思いっきり弾けてもらった。ライヴ後はいつものように店に残った常連さん達との現代版・唄遊び。今回はギターが上手い岡ちゃんが久々の来店とあって、私とのツインギターで往年のヒットナンバーをみんなで歌いまくっていると、常連の中年女性に「あなた若いのに古い歌たくさん知ってるのねぇ」と感心された。そんなに若くもないのだが(笑)、私は70年代の歌は洋楽・J-POPともに強いのだ。80年以降はめっぽう弱いが...。
気づくと時計の針は1時に...。最後は「蛍の光」でようやく閉幕となった。


リハ 2004年4月24日

先日、モーヴ内練習場で行われたリハに参加してきた。来月4日大阪、5日奈良と二日間一緒にやらせて戴く沙弥音の面々と音合わせをするためだ。この日は数曲をちょっと合わせただけだが、沙弥音の奏でる音は非常に邦楽寄りでシマ唄にマッチする。特に改造フレームドラムを操る土居さんのキャラが良い。本番がとても楽しみである。
ところで、前回の日記で紹介したCD『わしたうた』の発売日が決まった。5月26日だ。それを聞いた師匠は「え?」と驚いた。驚くのも無理はない「十九の春」の元唄である「鎮魂歌・嘉義丸の歌」で歌われている船・嘉義丸が米国潜水艦に撃沈された日が昭和18年の5月26日なのである。偶然とは言え何かの因縁を感じさせられる。また、師匠の唄う「十九の春」はこのCDの1曲目に決まった。


十九の春 2004年4月12日

一昨日、都内某スタジオで師匠のレコーディングが行われ私は三味線奏者として参加してきた。
5月下旬か6月初旬に発売されるコンピレーションアルバム『沖縄ソングス〜わしたうた』に師匠の歌う『十九の春』が入るのだ。他の参加ミュージシャンもTHE BOOM、喜納昌吉、大工哲弘、ネーネーズなど有名どころばかり。沖縄ソングのヒットナンバーばかり集めたCDだ。「わした」とは沖縄の言葉で「わたしたち」を意味する。
さて、収録は師匠が唄いピアノにジャズピアニストの黒木氏、そして私が弾く三味線が絡むという構成となった。録音は和気藹々とした雰囲気の中、順調に進んだ。

「十九の春」というと一般には田端義夫が戦後大ヒットさせたことで有名な唄で、普通は「作曲者不詳」とクレジットされているが実はこれは奄美の人が作曲した唄であることを知る人は少ない。
しかもその「奄美の人」とは師匠の父上・朝崎辰如氏なのである。師匠は幼い頃から毎日のようにこの曲を唄う父上を見ていたという。そう、この曲は師匠にとって特別な唄なのである。師匠が沖縄の曲を唄うなんて「珍しい」と思われる方もあるかも知れないが、そういった背景があったのだ。
師匠ほど深〜い思い出ではないが、私も祖父が生前この曲をよく三味線で弾いていたのを思い出す。祖父が友人を集めた宴会の席では必ずと言って良いほどこの曲をみんなでわぃわぃ唄っていたのだ。それはそれは楽しそうだった。しかし当時子供だった私は「年寄りが集まって何が“十九の春”だ。」なんて目線でしか見ていなかったのだが、今となってはそんな思い出の曲の収録に、しかも師匠の伴奏者として参加できたことを非常に嬉しく思う。録音に持っていった祖父の形見の三味線も喜んでくれたに違いない。

解説:昭和18年、民間の船である嘉義丸を米国潜水艦が誤爆、多数の死者が出た。「嘉義丸の歌」はその事件を朝崎辰如氏が作詞作曲、鎮魂歌として唄ったもの。当初はバイオリンで伴奏をしていたという。


わいわい 2004年4月3日

昨夜はまたまた結ま〜るわいわいライヴに参加。なんだか最近はしょっちゅう結ま〜るに行ってる気がする。奈良氏は今回も欠席だったので太鼓は2/28にも一緒にやった偽ウチナンチュS君。こいつ、中学時代にドラムスをやっていただけあってなかなか良いリズム感をしている。そして何より級友だから気を遣わないで良いのが助かる。奈良氏の居ない時は毎回叩いて欲しいものだ。


お年寄り 2004年3月31日

昨日は品川区にある<注1>老人ホームのボランティア・ライヴに参加してきた。結ま〜る・悦子ママの呼びかけで集められた我々マブリの3名と宮里さん(from海ヤカラー)で沖縄民謡・奄美シマ唄・琉球舞踊などを1時間半に渡って披露した。聴いている人は職員を除いた全員(80人位いたかも)がお年寄り、という状況の中でのライヴだったが予想以上に盛況で、中には涙を流して喜ぶお年寄りの姿も見受けられた。奄美シマ唄にも沖縄民謡にも「お年寄りを大事にし敬おう」といった内容の歌詞が多いので、こういった場にはぴったりである。
そして夜にはそこの職員さん達が結ま〜るで打ち上げ。総勢二十数名が集結し大宴会をひらく予定になっていたので、事前に悦子ママから応援の要請を受けていた私も一旦帰宅し再びシャミとギターを持って駆けつけた。私がお店に到着した頃には宴は既に盛り上がっており、まるでスターのように熱い拍手で迎えられてしまった。今は異動の時期でもあるのでこの宴は送別会も兼ねているらしい。ミニライヴはいつものわいわいライヴのような形式でママと私が沖縄民謡やら沖縄ソングを演奏。昼間のライヴでお年寄りの世話にキビキビと動き回っていた職員の人たちはえらくハジケて踊り出す人も多く、昼の過酷な労働の後にこれだけ楽しめるのはすごい!とただただ感心してしまう。
途中「何か一人で唄って欲しい」というリクエストを戴いたので、異動の時期にぴったりな唄(?)「行きゅんにゃ加那節」を唄ってみたが、その時、座敷に陣取っていた初老のおじさま軍団の中から一人こちらに近づいてくる人がいた。どうやら私の方を指さして何か言っている。なんだろ?と思いつつ唄っていると、ちょうど唄い終わった頃に私の目の前にやってきて「私はね、沖縄の人間だけど、奄美の唄も大好きなんだよ。とても良かったよ。ありがとう。」と言うではないか。こういった声をかけられることは大変ありがたいことである。
ライヴ後、常連さん達と私だけになったのでママも含めて唄遊びをして遊んだ。気づくと時計の針は午前様になろうとしている。外が土砂降りで帰るのは億劫だったが翌日が辛くなるのでここらで解散ということに。
こうして長い長い一日が終わった。

解説
<注1>老人ホーム、在宅サービスセンター、介護施設、それに公立中学校が一つになった施設。全国でも珍しい施設でTVで取り上げられること多数。私も以前TVで見たことがある。


三味線修理その後と三人の長さん 2004年3月29日

3/15の日記で書いた三味線が2丁とも修理からあがってきた。両方ともこちらの注文通りに仕上がっていて非常に満足である。

ところで、話は全く違う方向にそれてしまうが、先日のいかりや長助さんの死はショックだった。私は別に熱烈なドリフファンでもいかりやファンでもないのだけれど、ニュースを見た時は何故かまるで身近な人の死を知らされた時のようにドキッとしてしまった。また「太陽にほえろ」の長さんも亡くなってしまった。渋くて好きだったのに。非常に残念だ。
野球界の永遠のアイドル長嶋茂雄(この人も長さん)氏も倒れてしまった。幸い命に別状はないようだが。
昭和の有名人たちが次々と姿を消していくのはとても寂しい事だ。


ビニール袋 2004年3月19日

私は三味線を保管する時にいつも胴部分を和紙で出来た袋で包み、その上から厚手のビニール袋で包んで棹の所でゴムを巻き留めている。祖父がそうしていたからだ。和紙が湿度を調整して過度の乾燥や湿気から三味線を守ってくれるらしく、この保管法だと本皮の保ちが良い。
先日、この外側のビニール袋が破けてしまったので渋谷まで買いに行った。行き先は「ここに行けば何でも揃うだろう」というイメージのある■急▲ンズだ。早速ビニール袋の売り場に行き、数ある種類の中から丁度良いサイズは無いものかと物色していると、欲しいサイズだけが何故か無い。厚さ0.03mmという薄い物ならあるのだが、こちらが欲しいのは米袋のようにしっかりとした厚さ0.1mm位の物なのだ。薄い物ならわざわざ買わなくてもコンビニ袋で代用できるので、購入する必要もない。隅から隅まで探したがコレという物が見つからないのでもしかしたら店頭に出していない商品もあるかも知れないと思い、店員を呼び止めた。すると三遊亭円丈に似たその女性店員は「いま他のお客様の対応をしているのでちょっとお待ち下さい」という。そして2〜3歩歩いて他の店員に「**をお願いします」と仕事を振った後、フロアの隅に移動し、「休め」の格好で立った。30秒ほど観察していたがずっとそのまま立っている。どうやら私が声をかけたことなど既に忘れているようだ。信じられん。3歩歩いただけで忘れるなんてニワトリ級の記憶力ではないか?こいつはダメだと思い、他の店員を捕まえて「これと同じサイズで、もっと厚手のビニール袋はありませんか?」と聞くと「ありません」と即答され、しかも面倒くさそうに「ここに出ているだけです」と追い打ちをかけられた。あまりにもバッサリ切られたので「えぇ?天下の■急▲ンズなのにこんな対応なの?」と意外に思い「あの、ここで聞くのもなんですが何処で買えるのでしょうか?」とダメ元で質問すると「浅草橋の問屋街に行けば小売りもしてくれますよ」と極めて無愛想に答えた。「問屋街に行けば手にはいる事くらい君に聞かなくてもわかる。こちとら東京に40年近く住んでいるのだ。」という言葉をグッと飲み込み、「わかりました。じゃ、いいです」とその場を去った。
この一件で「昔から品揃えや客の対応に定評のある天下の■急▲ンズも墜ちたものだな」とガッカリさせられた。「申し訳ありません」という言葉も出なきゃ「何とかしたい」という姿勢も見られない。「無いから他で買ってよ」という考えらしい。
結局、一度帰宅した後、車で出直し立ち寄った近所の西友で欲しい物は見つかったから良かったのだが...。


三味線修理 2004年3月15日

先週の金曜日、グルくんライヴに出かける直前、正月に修理に出した2本の三味線(#4、#6)と先日糸巻きが折れて修理に出していた上等三味線(#3)の3本が一斉に沖縄から戻ってきた。
#3の糸巻きは新品に換えられて回した感じも非常に滑らかでとても満足、#6も美しいスンチー塗りを施されすっかり上等三味線の様に変身していた。また#4の<注1>分当ても完璧で素晴らしい棹によみがえっていた。ただ、この#4に付けた<注2>胴の人工皮がキンキンと耳障りな音だったので、いっそのこと張り替えてしまおうと、また修理に出してしまった。

解説
<注1>歪んだ棹をまっすぐにする作業。もちろん職人さんにしかできない。
<注2>人工皮を張った胴は私が祖父のストックの中から持参した物。棹を組み合わせるまではあれほど音が悪いとは思わなかった。


行きゅんにゃ加那節 2004年3月11日

先日、八月踊りの稽古後に十五夜会のメンバーの一人が奄美に移住すると言うことで壮行会が行われた。予約は無かったが巧いこと居酒屋の個室がとれたので唄遊びもでき、たいそうな盛り上がりをみせた会となったのは良いのだが、『行きゅんにゃ加那節』をみんなで回して唄っていて私の番になった時に咄嗟に<注1>思いついた歌詞で「♪忘れんしょんなよ、離れて暮らちむ忘れんしょんなよ、吾きゃ唄、吾きゃ踊り〜」までいい調子で唄っていたのにその後歌詞が出てこず、最後の行は目の前にあったものをそのまんま唄ってしまった。「♪アイスクリーム〜、スラ忘れんしょんなよ〜」と。
みんなの笑いはとれたが、笑いをとっても仕方ない。ジ〜ンとさせる場面だったのに。
帰りの道すがら、最後の行を「くぬ座敷〜」と唄えばよかった...と悔やんだが、こぼれたミルクはコップに戻らないのだ。

解説
<注1>「忘れないで下さい、離れて暮らしても忘れないで下さい、私たちの唄、私たちの(八月)踊り、この座敷、忘れないで下さいね」といった意味。


有線 2004年3月7日

私の聴く音楽は基本的にいつもシマ唄ばかりだが、時々職場に引いてある有線でPOPSやJ-POPも聴いたりする。ところが、これが年代別に分けられていて70年代、80年代、90年代、最新ヒットチャート、となっているので、これが私にとってはとても中途半端である。記憶に残る懐かしい音楽はどうしても70年代後半から80年代前半のヒット曲なのだ。70年代のチャンネルを聴いていると70年代前半は知らない曲ばかり。また80年代のチャンネルを聴けば80年代後半はこれまた懐かしくない曲ばかりでちょこちょことチャンネルを変えねばならず、これが結構面倒くさい。75年〜84年なんて分け方をしてくれると非常に嬉しいのだが、無理だろうなぁ...。


女弦の糸巻きが折れたっ!お、折れてるっ! 2004年2月28日

昨夜は結ま〜るわいわいライヴに参加してきた。いつもは太鼓に奈良氏が参加しているのだが今回は欠席だったので、結ま〜るの常連でもあり私の中学高校の同級生でもある<注1>“偽ウチナンチュ”S君に太鼓を頼んだ。(これが結構上手かったので驚いた)。
ライヴの方は沖縄民謡・沖縄ポップス・奄美シマ唄、更には往年の70年代フォークソングとすっかりチャンプルー状態になったライヴでお客さんも大いに盛り上がり、いよいよクライマックスのカチャーシー&六調で踊り狂ってもらおうとギターから<注2>マイ三味線に持ち替えたその時、私は異変に気づいた。女弦の糸巻きが折れているのだ(涙)。一瞬ショックで言葉を失ってしまった。
しかし、倒してもいないし、強い衝撃を加えたわけでもないのにどうして折れてしまったのだろう。経年変化で劣化していた所にちょっとした刺激が加わったのだろうか。さっぱりわからん...。
祖父の形見でもあるし、明日のライヴでメイン三味線として使う予定だったので非常に残念だ。このまま放っておいても使えないので悦子ママに預けてきた。というのもママが1週間後に沖縄に行くというので、<注3>喜屋武商店に寄ったついでに修理に出してもらおうという魂胆である。

解説
<注1>'99年、私が師匠の伴奏で結ま〜る初出演した時にS君は偶然にもカウンターで泡盛を飲みながら聴いていた。もちろん私が三味線を始めたことなど知る由もないS君とはその時実に17年ぶりの再会。『偽ウチナンチュ』と自らを称するだけあって東京生まれにもかかわらず、眉の濃いその顔はどう見てもウチナンチュ(沖縄の人)だ。
<注2>コオル兄さん蛇皮線コレクションの#3。最近のライヴではこればかり使用している。#4は修理中、#6は棹の塗り替え中で共に喜屋武商店にある。明日のライヴでは#1、#2と六線の#7を使うことにしよう。

<注3>今年の正月に六線を購入したお店。お店に行った時の模様はこちらで紹介しています→click


サバ缶三味線(試作第1号)サバ缶三味線 2004年2月19日

サバ缶三味線が完成した。制作者・岡ちゃんの薦め通り皮に当たる部分はプリングルスの底を使用。これは通常の缶詰の底よりも素材が薄いため、音の響きがよい。全長は約45cm。これは棹の元となる材木が90cmで売られており、それを真半分に切ったからである。糸巻き部分をもっと工夫したかったのだが良いアイディアが浮かばなかったので、とりあえず今回は岡ちゃんの猫缶サンシンと同じ壁掛け用フックにした。棹のてっぺんに付いているフックが中弦用、男弦・女弦用のフックは棹の裏側に付けてみた。いくらオモチャの三味線とはいえ、音の精度や弾きやすさにもこだわりたかったので、棹の面と胴の面が水平になるようジョイント。これが作る上で一番の難所だった。
そして肝腎の音だが、これが結構いい音で鳴るのだ。ただ、胴が小さいので音量は小さい。その辺も考慮して後々ギター用のピックアップを内蔵すべく、胴の反対側は蓋をしていない。
演奏時は胴を右手の小指側で持つように構える。胴が小さいのでヒザに乗せても不安定だからだ。バチは竹製のバチでは弾きにくいので、Eベース用のピックを使う。画像にある紫色のピックがそれだ。
試作品でかなり良い物が出来たので、次は糸巻きを工夫し、胴をもう少し大きい物に改良すれば、もっと良い物が出来そうだ。


ミニカンカラ三線 2004年2月11日

9日の日記に書いた猫缶サンシンがとても面白かったので、制作者・岡ちゃん(結ま〜るの常連さん)の承諾を得て、私も真似してみることにした。もちろん奄美三味線のミニ版を作るのだ。
ちょうど今日は休みで渋谷に用事があったので東急ハンズで材料を買ってきた。棹は朴(モク)、この木は堅くて捻れや割れが少ないそうだ。それに薄い黒檀の板を張り付ける。当初、構想の段階では黒檀のみの棹にするつもりだったが、ちょうど良いサイズの物が売っていなかったのでギターの指板のように薄い黒檀の板を貼り付けることを思いついたのだ。胴は猫缶だと岡ちゃんと全く同じになってしまうので、少しひねって『サバ』缶にしてみた。しかも「八丁味噌三年熟成」である。材料は全て揃ったので明日から制作にかかる予定だ。その前に中身のサバを食べなきゃ...。


うずまき 2004年2月10日

昨日(2/9)はアコースティック・ユニット<注1>『うずまき』のライヴに参加してきた。このサイトをご覧になっている方々は『うずまき』と聞いても何のことだかさっぱり解らないと思うが、実はこれ、私が若かりし日に参加していたバンド『ラッキィズ』が前身となる再結成ユニットなのである。『ラッキィズ』と聞いてもピンと来ない方も多かろう。それもそのはず十数年前に小さなライヴハウスで活動していた只のアマチュアバンドだから仕方がない。当時若かった我々はいろんなことを乗り越える事が出来ず半ばうやむやな形で解散してしまったのだが、もうお互いいい大人になったからという事でまたやってみることにしたのだ。
ライヴの方は十数年ぶりと言うこともあって多少ぎこちなさが出てしまった感はあるが、なかなか盛り上がったように思われる。途中、マナーの悪いごく一部の客が原因のアクシデントでライヴを中断させられてしまったが、ひきつる相方をフォローする気もあって「千鳥浜」を唄ってみたら意外と<注2>ウケた。こんなところでシマ唄が役に立つ事もあるのだなぁ、と一人ほくそ笑む私であった。

解説
<注1>もし興味のある方はこちら(→公式サイト:うずまき.web)を参照して戴きたい。
<注2>自分ではウケたように見えた(笑)。店長も興味を持ったようで「良かったらうちでシマ唄ライヴをやらないか」と言ってきた。


二次会
↑二次会の場でカンカラ三線のミニ版、“猫缶サンシン”なるものに悪戦苦闘して「修行不足だな」と周囲を笑わせている安里さん。

新年会 2004年2月9日

昨日は品川プリンスのClub eXで結ま〜る主催の新年会が開かれた。私は『友情出演』という形で出演。後半に数曲をやるだけなので、前半はゆっくりと美味しい料理を味わいながら沖縄民謡や琉球舞踊を楽しむことが出来た。
会場は品川プリンス敷地内に出来たばかりのとても豪奢な素晴らしい円形劇場である。また、会の内容は盛りだくさんで、沖縄音楽はもちろん、ゲストも多彩で参加したカザフ音楽を歌う中国の方が発するやたら通る声やその人の弾くトンブリという二弦楽器の音に感心したり、寿・ナビィさんの声量に聞き入ったり、八重山の唄者・安里勇さんの唄にしびれたり、藤木勇人さんの一人ゆんたくに大笑いしたりと、大いに楽しめた。
私は悦子ママを相方に、『一切朝花』と『千鳥浜』を、また安里さん始め沖縄民謡の方々と『安里屋ユンタ〜ちんだら節』のメドレー、更には『八重山六調節〜奄美六調』の掛け合いなどをやらせてもらい、こちらも大変楽しめた。呼んでくれたママに感謝しきりである。六調掛け合いに続いて『唐しんどーい』でカチャーシーとなり、円形の舞台には演奏者だけでも7〜8名は立っていたのに更にどっと大勢の人が踊りながら上がってきてグチャグチャ状態に。私は自分の六調を唄い終わった直後に雰囲気を察知し、2本のマイ三味線を持って舞台の後ろの方に避難したので大事には至らなかった。
大盛況のもと無事に新宴会が終了した後は、結ま〜るに場所を移して二次会。ここでまた安里さんのミニライブを見ることが出来た。その後は常連さんにリクエストされるがままに私がギターを弾きみんなで大合唱。まるで歌声喫茶のよう。一日中沖縄音楽漬けだったのでこういったのも少しあると楽しいのだと思われる。
そして楽しい楽しい夜は時計の針が0時を回った所でようやくお開きとなりました。


六線の弦 2004年2月6日

沖縄の六線は沖縄弦の副弦として1オクターブ高く調弦した奄美弦を張る。白い弦と黄色い弦が交互に張ってあるので見た目も面白い。一方、奄美の六線は各弦を2本ずつ張る。当然6本の弦は全て黄色である。
これを12弦ギターのように通常の弦と1オクターブ高い弦をセットにしてみたらどうなるだろうと思い、家にあった<注1>釣り糸を 中弦の副弦として張ってみた。見栄えの問題で黄色い中弦の副弦だけ透明なのもおかしいと思い、男弦の副弦にも釣り糸を張って1オクターブ高く調弦した。女弦は細いのでこれ以上高い音に調弦するのは手持ちの釣り糸では不可能と判断し、そこはいじらなかった。
実際に張ってみて気づいたのだが、釣り糸は当然の事ながら透明なので黄色い奄美弦と交互に張ると見た目が変である。遠目に見ると釣り糸の部分は弦が張ってないように見えるのだ。そして何よりも重要な音の方だが、ただでさえ高い音に設定されている奄美弦の更に1オクターブ上となると大正琴のようなキンキンした音しか出ず、ちっとも良くない。
というワケで釣り糸はやめてすぐに元の弦に戻したとさ。めでたし、めでたし...。

解説
<注1>私は釣りはしないが、バルコニーのカラス対策として釣り糸を利用している。植木を荒らされたり、魚の頭など汚い生ゴミを持ってくるカラスどもに辟易としていた時、ある人から「釣り糸を張ると良いよ」と教わったのだ。
いつもカラスが来る所に釣り糸を張っておくと、バルコニーに着陸しようとしたカラスが引っかかり、広げた羽が引っかかるのは結構痛いと見えて二度とそこには来ないようになるようだ。実際やってみると効果てきめんで、以前に一度その現場を目撃したことがあるが、糸にかかった瞬間カラスは「ギャーッ」と叫び、バランスを崩して墜落しそうになった。さすがに地べたに墜落はしていなかったが、そのショックで羽根も何本か抜けてしまうというなかなか壮絶なシーンであった。それ以来バルコニーにカラスが現れることはほとんど無い。


結ま〜る 2004年2月2日

昨夜は結ま〜るに行ってきた。8日(日)に行われる『結ま〜る新年会inクラブex』に友情出演するので、そのリハをするためだ。今回私の相方は悦子ママ。ママと二人で奄美シマ唄をやるのは初めてである。どうなることやら、当日が非常に楽しみだ。


MDウォークマン 2004年2月1日

また壊れた。今回は録音が出来なくなった。しかしよく壊れる。これで修理に出すのは4回目だ。SONYさん、修理代をもっと安くするか、もっと丈夫な商品を作って下さい。


わらしべちょうじゃ 2004年1月24日

20日の夜から進行中の風邪をすっかりこじらせてしまった。普段は体温が38℃を越えただけで立つことはおろか、まともに会話すら出来なくなるほど熱に弱い私が一時は40℃を越えるほどの熱が出てしまったので「こりゃまずい」と思い、甚だ不本意ではあるが西洋医学の手助けを借りることにした。普段ほとんど病院にかからない私はこういう時どこに行ったら良いのか解らない。とりあえず『たかが風邪でも親切に診てくれそうな救急病院』をNET上でいろいろと探してみたが案の定見つからなかったので6年前に(足首の捻挫で)一度だけお世話になった近所の救急病院に電話をしてみると、とても対応がよかったのでそこに行くことにした。
数分後病院に到着。時間外の病院はどこか不気味である。問診票などを書かされて診察室へ通された。明らかに私より年下と思われる医師にタメグチで「何でこんなになるまで放っておいたの!ん〜?肺炎になるよ!」などと脅かされ、看護士には<注1>インフルエンザのテストとやらで何だか長〜い綿棒のような物を鼻の穴奥深くまで挿入され、半泣き状態で待合室に戻された。そこにある本棚の中にふと目にとまった背表紙があった。『日本の昔話・わらしべちょうじゃ』である。この昔話ってどんなストーリーだったっけ...。気になる。しかし、高熱でフラフラしている中年の風邪っぴき男がソファに座っているのもやっとの状態で表紙に大きく平仮名で『わらしべちょうじゃ』とかかれた本を読んでいたらさぞかし気持ち悪いだろうと思って、その本に伸びかけた手を引っ込めた。それが帰って薬を飲み熱が下がった今でも気になっている...『わらしべちょうじゃ』
どなたか今度会った時に教えて下さい。

追記
<注1>因みにテストの結果は陰性。インフルエンザでも鶏インフルエンザでも、SARSでもなかった。


日記 2004年1月22日

最近この日記が滞っているが、ネタがない訳ではない。沖縄の三味線店で皮が破れた時の対処の仕方を教わってきて実際に自分でもやってみた事や、新たに購入したソフトケースの事、また正月に頼んだ六線が出来上がり手元に届いた事など書きたいネタはそこそこあるのだが、デジカメが壊れてしまったので更新できずにいるのだ。しかも一昨日から風邪を引いてしまい、発熱・鼻水・関節痛ですこぶる体調が悪い。私は薬が嫌いなので、ひたすら寝て自然治癒力に任せる事にする。


沖縄 2004年1月9日

例年の通り正月を沖縄で過ごしてきた。本島の観光地はほとんど行き尽くしたので、今回の旅の目的は山羊刺しを食べる事と三味線メーカーを訪れる事の2点に絞られた。今回は特に三味線に関するマニアックなネタを多く仕入れてきた。近日中に沖縄からデジカメの入った荷物が手元に届くので、その時の様子を旅日記の方で紹介したいと思っている。


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