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管理人の日記です

前の日記[2003年前半]


大晦日 2003年12月31日

26日は結ま〜るわいわいライヴに参加、29日は朝崎先生をとりまくスタッフの主催する忘年会に参加し、2003年に予定されていた私の音楽関係の活動はすべて終了した。振り返ると今年は昨年以上に多くの素晴らしい人たちと出会う事が出来、また多くの貴重な体験をさせてもらった一年であった。シマ唄を始めた5年前には予想だにしなかった事である。常に私を引っ張ってくれる師匠をはじめ、スタッフの方々や音楽仲間、そしてライヴに足を運んでくださる方々に感謝し、来年も『真の唄者&奄美のクラプトン』を目指し切磋琢磨していきたい。


バッタリ 2003年12月21日

今日、仕事を終えた後、人出の多い自由が丘の街を歩いていると井出隆一さんとバッタリ会った。井出さんとは今年の夏に師匠のライヴでご一緒してから、私の本業の関係で何度も会っていたが、街で偶然にも会うとは思っていなかった。世間は狭い物である。


旅の写真 2003年12月18日

先日の古仁屋〜加計呂麻ツアーで合流したKUWA氏がその時の画像を300枚近く送ってくれたので、ライヴレポート旅日記(2日目以降)に画像を少し追加した。


奄美のたて琴たて琴 2003年12月15日

先日、名瀬の阿世知三味線店にお邪魔した際にたて琴の調弦法を教わってきたので、さっそく祖父の家にあるたて琴にトライしてみた。手作りっぽい木製ケースの蓋にはゆうパックの送り状が貼り付けられたままだ。もちろん送り主は阿世知さんである。日付は97年とある。
流浪の唄者・里国隆さんがこのたて琴を演奏していたのは奄美音楽ファンの間では有名だが、里さん亡き後、今このたて琴を演奏するのは阿世知さんくらいしかいないのではなかろうか。私も祖父がたて琴を持っていたのは知っていたが、調弦法や弾き方・持ち方などがまるで解らないので、今まで手を出さなかった。しかし、調弦法が解ったので弾く方も何とかなりそうだ。


古仁屋〜加計呂麻ツアー 2003年12月11日

12/6〜8の三日間、我々マブリのメンバーは師匠・朝崎郁恵のコンサートのため古仁屋に同行した。特に私は名瀬より南部は初めてで古仁屋も加計呂麻も初体験。今回の旅では本当にいろいろな人と出会い、様々な素晴らしい体験をさせてもらった。その模様を旅日記にUPしたのでお時間のある方は読んで戴きたい。


bikibikiさん(左)と熱唱中の幸平君(右)
bikibikiさんお手製バチ

Travel Cafe Blissにて 2003年12月5日

昨夜は奄美音楽情報の管理人・bikibikiさんと共に原宿Blissに行ってきた。このお店では映画『沙羅双樹』で主役を演じた福永幸平くんが毎日ミニライヴを行っている。
我々がお店に着いて30分くらい経つと、この日2回目というミニライヴが始まった。幸平君は特にステージなどを設けていない店内の隅に立ち、辿々しいMCを挟みながらザ・ブームの曲と「ハイサイおじさん」、そして「糸繰り節」、オリジナル曲の4曲を歌う姿が微笑ましい。彼のオリジナル曲、「わたしのシマよ〜」という部分しか覚えていないが、なかなか良い曲だったなぁ。追っかけの女性も居るとかで、彼も頑張っているようである。
他のお客さんが帰った後、bikibikiさんの提案で幸平君も交えて唄遊びをやることに。その際幸平君の三味線を貸してもらったのだが、弦が半透明なのでオヤッと思っていると「テグス(釣り糸)を張っているんです」という。テグスだと丈夫で切れにくく、キーの低い沖縄曲から高い奄美シマ唄まで
張り替え要らず、同じ弦で対応できるそうだ。彼なりに研究した結果らしい。
さて、いざ弾こうかという段になるとbikibikiさんが鞄からバチを2本取り出し、「バチは堅いのと柔らかいのではどちらが好きですか?」と聞くので「柔らかいほう!」と答えると一本くれた。bikibikiさんお手製のバチなのだが、これがとても使いやすい。バチ作りのために鉈まで購入したらしい。素晴らしい入れ込みようではないか!バチの頭に「B」とあるのは阿世知バチの「A」に対抗して、bikibikiの「B」とは本人談。


奈良氏の頭上にはお椀の蓋が...ランチ 2003年12月3日

昨日は午前中に師匠朝崎宅にお邪魔し、今週末に奄美で行うライヴの打ち合わせ&リハをしてきた。奈良氏と恭子嬢も同席し、打ち合わせはお茶菓子をつまみながら和気藹々と行われた。その席で当日やる曲もいくつか練習したのだが、一般の民家でジャンベを叩くわけにはいかないので、奈良氏はたまたま手元にあった木製のティッシュケースを手に取り叩きだした。さすがは打楽器奏者。このただのティッシュケースが奈良氏の手にかかると立派な打楽器なってしまう。そして面白いことに中のティッシュ箱を取り出して叩くとあまり良い音がしないのだ。打楽器は奥が深いと感心することしきり。(打楽器ではないのだが)
さて、そんなこんなで打ち合わせは無事終了し師匠宅を後にした我々マブリの3名は昼食を食べてから解散しようと言うことになり先日のグルくんライヴの録音を聴きながら私の車で場所を移動。あまりにも天気がいいので弁当を買って駒沢公園で食べようかと盛り上がったが、正午を過ぎてしまったので途中立ち寄った美味しくて有名な手作り弁当の店は全て売り切れ。泣く泣く最寄りの和風レストランに入った。画像はその時の様子。


蛍光板が光るギターケース。これで夜道も大丈夫...かな?ギターケース 2003年11月30日

28日グルくんライヴのため自宅を出る時、ギターケースのストラップが壊れた。正確に言うとストラップの長さを調整する金具部分が壊れてしまったのだ。このケースは最近ずっと愛用しているもので、安物だがなかなかよく作られていて重宝したのだ。壊れた部分だけを修理して、また使おうかとも思ったが、来週の奄美行きでギターも持参することになったので、空の旅に耐え得るもう少し丈夫なソフトケースがあれば新調してしまおうと思い、近所の楽器屋をチェックしてみると、ハードケース並の強度だが軽い『ライトケース』なるものが7,000円で売られていた。「こりゃ安くていいや」と、手に取って見せてもらったがどうも<注1>私の大きなギターは入りそうにない。仕方なく諦めると店員が「これなら入りそうですが如何でしょうか」と、3倍の値を付けた派手なライトケースを持ってきた。スポーティな外見がゴルフバックのようにも見えるので、見た目は今イチ気に入らなかったが、さすがに値が張るだけあって作りは頑丈、小物入れなども充実し機能的にも大変優れているようなので購入することにした。いつの間にやらギターケースもだいぶ進化したようだ。

解説
<注1>1981年製、YAMAHA L-31Aという大きく分厚いアコースティック・ギターで、知る人ぞ知るテリー中本さんが手がけたギター。。大きなボディとは対照的に甘く優しい音がでる。三味線と同様、私の大事な宝である。


十五夜 2003年11月27日

マブリの持ち歌「十五夜」をアレンジしてみた。今までは作者の恭子嬢が歌っていたが、新アレンジヴァージョンでは奈良氏が歌う。
全然違う曲のようだ。


わぃわぃライヴ 2003年11月24日

福岡−大阪ツアーですっかり体調を崩してしまい風邪の諸症状に冒されていたのだが、21日(金)の夜は『結ま〜るわぃわぃライヴ』に参加してきた。悦子ママが唄・三線、奈良氏が太鼓、私がギターで伴奏、沖縄民謡や沖縄POPSのオンパレードである。途中、ママの喉休めを兼ねて私と奈良氏で奄美シマ唄を少しだけやらせてもらった。結ま〜るの常連さんの中には数は少ないが奄美音楽ファンもいるのだ。この時も数名の人から「もっと奄美の曲をやってよ」なんて言われた。嬉しい事だ。
ライヴが終わると少しからだが楽になったような感覚になったが、これはきっと錯覚だろう。元来11月は私の鬼門で毎年体調を崩す。翌22日のグルくん唄遊びは大事をとってお休みする事にした。


東京−福岡間 2003年11月20日

11月18日(火)、朝早い便で福岡に飛ぶため<注1>一人羽田空港に着くと、観光シーズンでもない平日の朝にもかかわらず搭乗口(手荷物検査)前に長蛇の列が出来ていた。一瞬「何で?」と思ったが、その並んでいる連中の服装を見てすぐに答えが解った。その人の群れは詰め襟とセーラー服だらけ。そう修学旅行の団体だ。東京での数日間を終えた彼らは地元に帰るのであろう、誰も皆テンションが高くかなりの喧しさだ。まぁ、手荷物検査で少々時間がかかったとしても同じ便とは限らない。こちとらいい大人だし、あちこちで騒ぐ高校生を横目にポーカーフェイスで33ゲートを目指し足早に歩く。それにしても制服の数が夥しい。これは1校や2校じゃないな、修学旅行ラッシュだ、等と考えているうちに33ゲートに着く。ガーン...。更にたくさん高校生がいるではないか!こりゃ間違いなく同じ便だとわかり、憂鬱になる。せめてもの救いというか、航空会社も心得たもので喧しい数百人の高校生は先に飛行機に乗せてしまうようだ。数百名の制服集団がバスに乗り込んだ後、一般客の搭乗受付がようやく始まった。私も列に並ぶ。私のすぐ前で<注2>永六輔さんと細川俊之さんが談笑している。どうやら同じ便らしい。
さて、搭乗前にあれほど騒がしかった<注3>高校生どもは機内で大人しかったかというと、そんなハズはない。離陸の際、女子生徒の声で悲鳴があがる。「きゃ〜!」それも一人や二人ではない。「わ〜!きゃ〜!ギャ〜ッ!!」そりゃもうすごい数でホントに参った。そして悲鳴が終わったら今度は右隣のオジさんが座席に着いたままゴルフスイングを始め二の腕が当たって気持ち悪い。更に受難は続きお次は左側のオヤジが脚を広げ、その脚がこちらの脛の外側に触れる。気持ち悪い事この上ない。後から騒音、両側からセクハラを受け続けての2時間はとても長く感じ、福岡に着いた頃にはもうヘトヘトになっていた。

補足
<注1>朝崎先生御一行はTVとラジオの取材がある為、一日早く福岡入りしていた。18日に福岡入りしたのは私とピアノの高橋氏だけ。高橋氏とは同じ便だったが福岡空港に着くまで会わなかった。
<注2>顔も体も意外と大きい永六輔さんは結構目立つ。因みに少し離れた所には木原美智子さんもいた。私は以前たまたま見たTV番組『人はなぜ歌うか』で永さんの話に感銘を受けたので実物を見られて少々嬉しかった。機内にはいると永さん御一行は私の2列前。しかし永さんの席と私の席の間にはスーパーシートとエコノミーシートの大きな溝(!)がありカーテンで仕切られてしまうのであった(涙)。
<注3>ここで偉そうに「喧しい高校生ども」などと言ってしまったが実はその昔、私の方が彼らよりよっぽど喧しかったかも知れない。高2の時、修学旅行に生ギターを持参し「カラオケ大会」と称して宿で毎夜クラスメートや教員たちと大宴会を開いて京都の夜を楽しんでいた。何を合唱したのかはよく覚えていないが、一つだけ記憶に残っているのは沢田研二の「六番目のユウウツ」。これはみんなで何度も歌った。「ハッ!ハッ!ハッ!」ってところが異様に盛り上がったのをかすかに覚えている。当然近隣からは苦情がきた。また帰りの新幹線では教師や他の乗客も巻き込んで一両丸ごと大合唱。この時は盛り上がり過ぎてしまい車掌が飛んできて制止されたが、担任の教師が「子供達がこんなに楽しんでいるのに止めるとは何事だ!」といって車掌に喰ってかかり、生徒たちから一目置かれるようになった...。
まぁ、いま考えると『周囲の大人も巻き込んだ』ということは単なる迷惑行為ではなく、結構大人から見ても楽しかったのかも知れない。今ではいい思い出だ。


結ま〜るライヴ 2003年11月15日

昨夜はマブリのライヴが五反田・結ま〜るで行われた。概ね満席となり喜んだのも束の間、ステージ近くに陣取った7〜8名のグループは唄など何も聞いちゃいない。こちらがマイクを通して話すより大きな声で喋りまくっているのだから聞こえるワケない。その向こうにはMC一言一言に頷きながら一生懸命聞いてくれている人たちもいるのに...。こういう日を私は相方の奈良氏と『試練』と呼んでいる。どんな状況でも周りに左右されない演奏をしなくてはと思っているのだが、どうしてもうるさい方ばかりに気を取られてテンションが下がってしまう。もっと精進しなくては。


新宿朝花にて 2003年11月9日

昨夜は『亀○○』こと酔っぱらいO氏からのお誘いがあったので森田照史氏のお店・新宿『朝花』に行ってきた。若手唄者・竹島信一さんが上京していて朝花に立ち寄ると聞いたからだ。竹島さんとは3年前に喜界川嶺の島遊びで一度だけ会ったきりで彼も私の事など覚えちゃいないだろうが、何故か「こりゃ行かねば」と思ってしまった。結果から言うと行って正解。森田さん、安原さん、そして竹島さんの歌掛けを拝聴できたし、他にもいろいろな人と話す事が出来た。特に竹島さんの唄三線ときたら3年前よりも格段にパワーアップされ、三味線・唄共に大変素晴らしいものだった。もちろん当時から非常に巧い唄者であったが、技術の上に味わいが重なったとでも言おうか。年齢は私より随分と下だがシマ唄のキャリアは比べものにならないくらいあちらは大先輩である。それでも進化を続けるとは素晴らしい。日頃の努力研鑚の賜物だろう。私も見習いたい。


本門寺ライヴ 2003年11月8日

本門寺ライヴが終わった。
客席から見てどのようだったかはよく解らないが、十五夜会の八月踊りは初舞台にしては巧くいったのではないか。本番前、控え室で踊り手(男性陣)の中の約3名が黒糖焼酎をガンガン呑んで雰囲気を盛り上げ舞台上でもかなり弾けていたので、彼らに煽られるように他のメンバーのテンションも高くなっていったのかも知れない。緊張はしていただろうが、とにかくみんなよくやってくれた。

ゲストのチチ松村さんは人当たりの良い優しい方で、控え室や舞台袖で何度かお話しさせて戴いたが、こちらの質問にも嫌な顔一つせず応えてくれた。私は昔からゴンチチのファンでCDはほとんど持っているが、今回生のチチさん(生チチ)にお会いして、ますますゴンチチが好きになってしまった。
ヴォイスの福岡ユタカさんとも少しだけお話しする機会があった。福岡さんはとても気さくで無類の野球好き。この日行われていた長嶋JAPAN対韓国戦の試合結果がとても気になっていたらしい。ぜひ一度ゆっくりと野球話に花を咲かせたいものだ。
和太鼓の内藤さんとご一緒させて戴くのは今回で二度目だが何故だか非常に話しやすく昔からのつき合いのような気がしてならない。演奏上も細かい決め事をしなくても目で合図すればOK。話しても楽だし、ウマが合うような気がする。
今回のゲスト陣は一流の音楽家というだけでなく、みなさん人間的にも素晴らしい方々だった。
先月、某ミュージシャンにえらく失望したばかりなので、『一流の音楽家は人間的にも一流である』と痛感したのであった。


八月踊り 2003年10月29日

昨日は朝から風邪気味で体が重く、悪天候も相まって動く気がしなかった。昼に食事のため少しだけ外出したがすぐに帰宅し昼寝。夜の八月踊り『十五夜会』の練習もお休みしようかと考えたが、本番が近いので、頑張って出席する事にした。しかし現場に着いて踊っているうちにだんだん体が楽になっていくのは不思議だった。本番に向け、メンバーもやる気が出てきたのか、踊りも唄も以前とは比べ物にならないくらい元気になってきた。本番が楽しみだ。


週末は島唄三昧 2003年10月26日

一昨日(24日)は結ま〜るのわぃわぃライヴに参加してきた。基本的には悦子ママの唄三線にギターを合わせる形だったが、曲によっては島太鼓を叩かなくてはいけなかった。何を隠そう私は島太鼓を叩いた事がないので、無謀にもぶっつけ本番でやってみたのだが、これがなかなか強敵でヒジョ〜に難しかった。「日頃八月踊りの稽古などで奄美太鼓(チヂン)を叩いているし、沖縄曲はゆったりしているから何とかなるだろう」程度に考えていたが甘かった。沖縄島太鼓というか打楽器は侮れんな〜。
翌25日は阿佐ヶ谷グルくんでの定例唄遊び会に参加。仕事の都合で私は遅れて参加したのだが、いつものオジさん二人組はもちろん、今回もニューフェイスが何名かいらして既に盛り上がっていた。そのうち、たまたま店に居合わせていたフランス人も巻き込んで八月踊りは飛び出すやら常連さんの稲摺り踊りは飛び出すやらでたいそう盛り上がった。これだから唄遊びはやめられん。
で、ぼちぼち帰ろうかと思っているとき、ママが座敷に陣取った女性二人を指して「あのお客さんたち、タナカさんの事、知っているわよ」という。どうやら昨年スターパインズで行われた『ヤッホー仕込み』を見に来ていて、その時始めて我々の島唄に触れたのだという。一年も前のライヴを覚えていてくれたとは、何と有り難い事だろう。これはとても嬉しかった。


東芝保温釜今日は 2003年10月18日

今日は私の誕生日だ。最近は誕生日と言っても祝ってくれる人はほとんどいない。
子供なら親や友達が、若者なら恋人が、老人なら親戚一同が祝ってくれるのだろうが、私はそのどれにも当てはまらない中途半端な年齢なので仕方ないのだが、今日突然、妹と弟からのプレゼントが届いた。
ラッピングもされずに箱のまま送られてきたその代物は....IH炊飯器である(笑)。
生活臭がプンプン漂う贈り物だが、これは嬉しい。今まで固かった玄米もこれからは美味しく炊けるぞ〜!


ビデオ 2003年10月14日

昨日今回の喜界行きで録ったビデオを整理していると「97年奄美」と書いたテープが出てきた。早速再生してみると川嶺の島遊びが録画されている。きっと98年に他界した祖父が最後に喜界を訪れた時の映像であろう。八月踊りが延々と録られている。そして最後の方に安田民謡教室の練習風景が収められていた。私が今回の旅で訪れた時のように中高生が伸びのある声で唄っている。おや?その中にどこかで見た顔が一人...。「かんつめ節」と「塩道長浜節」を安田さんの伴奏で立て続けに唄うその少女は当時中学生だった牧岡奈美ちゃんだ。この頃から既にめちゃくちゃ上手い。なかなか貴重なビデオだ。祖父は良い物を残してくれた。


剥がした!その後 2003年10月1日

早いものでもう10月である。徐々に朝晩が冷え込むようになってきた。
さて、棹の塗りを剥がした事は9/18の日記に書いた。それ以来、この三味線を見た人から「これ、何の木ですか?」と良く聞かれるようになった。木の地肌がそのままでた棹を使っているのは珍しいのだろう。見た目も珍しいしスベスベで握った感触が気持ちいいので私としては結構気に入っていたのだが、思わぬ所から使用禁止令が出てしまった。禁止令の出所は亡きコオル兄さん一世の奥さん、そう、私の祖母である。今年で81才になる祖母は、「みっともないから塗りを剥がした棹なんて使わないで!」というのだ。「ストラトキャスターみたいで格好いいじゃん」と言ってはみたが、通じるはずもなく、年寄りのお願いなので素直に聞いてあげる事にした。
と、いうワケでツルツルスベスベの棹は皆様の前から姿を消します。何らかの塗りを施したらまたライヴに唄遊びにと活躍するでしょう。


上:いただいたバチ 下:先端の折れたバチ折れた! 2003年9月29日

9/26グルくんでのライヴの際、演奏中にバチが折れてしまった。私がいつも使用しているバチは竹製なので、繊維に沿ってタテに割れる事はあっても横に折れる事は初めてだ。折れた瞬間は全く気付かず、弦を空振りしてはじめて気付いた。一瞬何が起きたか解らなかったが、すぐに目の前に置いてある予備のバチに持ち替えたので大事には至らなかった。と言うのも、この日たまたまライヴ前に福本さん(かの子ママの叔父さん)から、『シマの土産』といって阿世知三味線店製のバチを1本いただき、「バチはシマの竹よりも本土の孟宗竹が素材として適している」などという話をしつつ、そのバチをしまい忘れてそのまま目の前に置いておいたのだ。
とにかくバチをいただいておいて良かった。


わぃわぃライヴに出て... 2003年9月20日

昨夜は『結ま〜る七周年記念わぃわぃライヴ』に参加してきた。結ま〜るでは月1度『わぃわぃライヴ』と称して悦子ママが中心となって沖縄民謡を始め沖縄POPSや琉球弧の音楽を生演奏でお客さんに楽しんで戴くという企画をずっと続けている。最近では我がマブリの奈良氏が悦子ママの相方として太鼓はもちろん沖縄民謡の囃子やギター伴奏までその多才ぶりを発揮している。私も何度かわぃわぃライヴを見たり飛び入り参加した事があるが、「安里屋ユンタ」「花」「島唄」はもちろん「涙そうそう」や「島人ぬ宝」など誰でも知っている沖縄音楽を中心に演奏するので、ディープな沖縄ファンでないお客さんたちでも楽しめてたいそう盛り上がる。これはこれでなかなか楽しい。そして昨夜は結ま〜るの開店7周年記念。前々から悦子ママに「来てね♪」と言われていたので、「奄美シマ唄を2〜3曲演奏すればいいのかな」程度の考えでお邪魔した。ところが実際はほとんどの曲にギターで参加する事になってしまった。でも唄わなくていいしギターもコードを刻んでママや奈良氏の唄をバックで支えるだけでいいので、奄美シマ唄をやるときとは違って結構楽チンで楽しめた。途中、奈良氏と私二人で奄美シマ唄を2曲だけ演奏したのだが、お客さんから「裏声がすごいね〜」とか「三線の奏法がすごいね〜」などの声をいただき、意外とウケたのは嬉しかった。何より嬉しかったのは沖縄のベテラン唄者の方に「君らのように奄美シマ唄をちゃんと勉強しているのは素晴らしい。それは師匠が素晴らしいという事だ。」と言われた事だ。欲も得もなく我々にシマ唄を伝授してくれている師匠の顔に泥を塗るような事はできない。人前で「僕らは朝崎郁恵さんの弟子です」と言うからにはいい加減な事は出来ない、と再確認した夜だった。


きゅりあん/結ま〜る 2003年9月19日

昨夜、朝崎先生から直々に電話があり「10/17きゅりあんでのコンサートに出て欲しい」と言われた。もちろん、師匠からの依頼なので二つ返事で引き受けたのだが、当初このコンサートは主催者側の意向で永田茂氏のピアノ伴奏のみで行われる予定だったらしい。「せっかく奄美本土復帰五十周年の年なのだから、三味線を入れても良いんじゃないかな...」なんて他人事のように思っていた矢先、自分にお声がかかって身の引き締まる思いだ。

話は変わるが今夜は結ま〜る七周年記念わぃわぃライヴだ。悦子ママと奈良さんと私以外は誰が出演するか全然聞いていない。どうなる事やら少々心配。しかし、わぃわぃライヴはいつも楽しくラフにやっているからテーゲーくらいが丁度良いのか。


ストラトのような棹剥がれてきた!その後 2003年9月18日

8/28の日記で棹の一部が剥がれてきた事を書いたが、剥がれた部分が演奏に影響しないうちに手を打とうと、思い切って一度全部剥がしてしまう事にした。というのも、9/5結ま〜るライブの際、この棹の話をしていると悦子ママが「明後日から沖縄に行くから三線預かっていって沖縄の三線店に出してあげようか」と言ってくれたからだ。これは大変助かる。送料が浮く、と言ったケチケチした話ではなく、多くの沖縄の三線店は紹介があるのと無いのとでは対応は天と地ほども違うからである。実は2年前、私が沖縄に行った際、棹を物色するため数件の三線店を回った。しかしどこの店でも無愛想な態度で「売る棹は無いよ」と追い出されてしまったのだ。まぁこれはその時に私の選んだ店がたまたまそういう店だっただけなのかも知れない。しかし、それがトラウマとなって三線店に入るのが怖ろしくなってしまったのだ。
とにかく悦子ママが紹介してくれる店なら安心して作業を頼める、というワケでお言葉に甘えて三味線を預けた。沖縄は浦添にある喜屋武(きゃん)商店という三線店である。今となっては珍しく原木を削りだして棹から三線を作っているお店らしい。
結果からいうと喜屋武商店にお願いして大正解。作業の工程をこまめに画像付きメールで連絡してくれるし、仕事は丁寧で迅速。月曜にママが持っていってくれた三味線は分解→棹の剥ぎ→組み立ての作業を終えて私の手元に返送されてきたのは土曜の昼だった。それで早速皆吉さんとの唄遊びに持参したというワケだ。何れにせよ、この喜屋武商店がすっかり気に入ってしまった。今度何かあったらまたこの店にお願いしようと思っている。


非公開ライヴin結ま〜る 2003年9月14日

昨夜(9/13)は<注1>『まじんまゆらおう唄あしび』と称して非公開ライヴが五反田・結ま〜るにて開催された。主催は<注2>徳之島郷友会の米里さん。氏の企画で唄者・皆吉恵理子さんと我々マブリ(タナカ&奈良)の唄あしびが実現したのだ。東京ではシマの若い唄者と共演出来る機会などあまりないので、声をかけて戴いて大変嬉しく思った。
さて、その唄者・皆吉恵理子さんだが、母上が有名な唄者、ご本人も小学生の頃からシマ唄を始めてコンクールで数々の賞を受賞しているいわばサラブレッドである。ご自分で三味線も<注3>弾きこなし、歌声は「これぞ正調!」といった格調高い唄い方をされる。さぞかし渋〜いキャラかと思ったらその正反対。唄っている時にはおよそ想像できないが、とても明るく気さくでひょうきん、初対面と思えぬほど会話が盛り上がった。

ライブレポートはこちら→クリック

解説:
<注1>「一緒に寄り合って唄遊びをしましょう」の意。
<注2>正式名称が解りません。すみません。
<注3>女性的で優しい音でした。もちろん、上級者です。


デジカメで撮ったのでこの程度の画像十五夜の月 2003年9月12日

昨日は十五夜。仕事を終えバルコニーに出て空を見上げるとまん丸のお月様が輝いていた。
元々私は星を見るのが好きで、毎晩バルコニーで一服しながらいろいろな星を見るのが日課のようになっているのだが、最近は火星が大接近しているとかでその頻度も普段より多くなってきている。
しかし、東京で十五夜の月をこんなにゆっくりと見たのは初めてかも知れない。この日は雲が少なく月がよく見えて、大気の汚れたこんな都会でも「おぉ」と見入ってしまうほど光り輝いていた。大昔の奄美で見る十五夜の月は漆黒の闇に輝いていて、それはそれは明るく綺麗だったに違いない。
以下は八月踊り唄『ええうみ』

♪お十五夜の月や 神美らさ照りゅり ハレ加那が門に立たば 曇て給れ
 (おじゅごやのてぃきや かみぎゅらさてりゅり ハレかながじょにたたば くもてたぼれ)

 ※対訳:十五夜の月が神々しく輝いています。私の恋人が(人目を忍んで私に会いに来るので)門の前に立った時は曇って(その恋人を照らさないで)下さい。


似ている!と言われた 2003年8月30日

昨夜、五反田で野暮用を済ませた後、腹が減ったので軽く沖縄ソバでも食べようと結ま〜るに立ち寄った。店の前まで来て気付いたのだが金曜の夜なので、誰かのライヴでもやっているのかな?と思ったらその通り、沖縄民謡ライヴで店内は大盛況。満席でガヤガヤと騒がしい中、カウンターの隅に一つだけ空席を見つけそこに座った。ライヴは更に盛り上がってクライマックスのカチャーシーとなり狭い通路は踊る人で溢れかえっていた。そんな状況で私は一人、汗を拭き拭き熱いソバをすすっていた。暫くしてライヴが終わり、団体客がゴソッと帰ると常連の女性が「あちらの空いたテーブル席でお話ししましょう」と声をかけてきた。朝崎先生のライヴやマブリのライヴで何度かお目にかかった事がある人だ。年齢は50代前半くらいか。名前は知らない。そして席を移動してたわいもない話をしているとその女性が私に「あなた南方系の顔をしているわね。沖縄の人?」と聞いてくるので、「いえ、僕は東京生まれですが祖父が奄美で...」等と話していると、「あら、そういえばこの店で奄美シマ唄をやる人にそっくりね〜、貴方」と言う。我々以外に奄美シマ唄を結ま〜るでやる人がいるとは初耳だ。「へぇ〜、奄美シマ唄ですか?それは誰ですか?」と聞くと「奈良さんともう一人...えっと、えっと...」と考えている。...「それ、僕じゃないですか?」というと、目を白黒させて「あらやだ〜、ごめんなさい、恥ずかしいわ〜、貴方タナカさんだったのね」と大笑い。...似ている訳だ、私の事を言っていたのだから。
最近口ひげを剃ったから解らなかったのかな。


シャミの棹剥がれてきた! 2003年8月28日

昨年7月に購入した三味線(#6、人工皮)の棹の塗装が剥がれてきた。
最近はレコーディング以外のライヴや唄遊びなど、殆どこれを使用しているせいか棹の傷みが早い。「少しだけ塗装が剥げてきたな」と思っていたらみるみるその面積が拡大してきている。今のところはまだ演奏上不具合は無いし音にも影響ないから良いと言えば良いのだが、更に剥げが拡大すると音に影響してきそうだ。そこで、三味線店に頼んで剥げた部分を塗り直すよりも、いっそのこと塗装を自分で剥いでしまおうかと考えている。元々私は棹の『塗り』はあまり好きではない。握った感じ太く感じてしまうし、左手の滑りが悪いからだ。
しかし、塗りを施していない棹は乾燥に弱いと聞く。湿気の多い南国と違い東京の冬は乾燥が烈しい。いま剥いでしまうと冬場に苦労しそうだ。万全な乾燥対策を施してから剥ぐ事にするかな...。(まだちょっと迷っている)。


唄あしび 2003年8月24日

昨夜は毎月第4土曜にグルくんで開催されている唄遊びに参加してきた。主宰の福本さんが何気なくいう言葉に演奏のヒントが隠されていたりするから面白い。
三味線の事、シマ唄の事、シマの事など毎回何かしら得るものがあるこの会で今回得たものは三味線の奏法に関する2点。
(1)徳之島一切節は『三下げ』で弾く
  →通常弾かれる本調子では男弦開放が根音となるが三下げでは中弦開放が根音となり男弦を低音のアクセントとして使う事が出来る。
    根音より下の音が出せる事で全体に音域が広がり、賑やかな伴奏になる。
(2)嘉徳なべ加那節は『二上げ』で弾く
  →本来は三下げで弾くが、二上げにする事でルートである中弦の5度下が男弦開放となり丁度良い倍音を響かせるせいか曲が明るい感じに聞こえる。

...ま、これらは私が勝手に想像した理屈だが、同じ曲でもチンダミが違うとかなり印象が変わるのは事実だ。

遅れて現れたM教室のO氏はいつに無くたくさん唄っていたが、結構酔っていたようで上の句だけで唄を終わらせる事が多かった(笑)。


送別会 2003年8月23日

昨夜は渋谷で行われたA君の送別会に参加してきた。八月踊り・十五夜会の仲間で島ンチュの彼は、とても明るいキャラでムードメーカー。僅か数ヶ月のつき合いだったが、そんな彼がシマに帰ってしまうのはとても寂しい。
今回、この送別会に彼の奄美時代の友人が多数集まるので、そこでシマ唄をいくつか披露して欲しいと頼まれた。もちろん二つ返事で快諾。会場はシャミや太鼓で音を出しても問題ないというライヴスペースの渋谷『B.Y.G.』。送別会は22時からだがその前の時間帯はBEGINがライヴをやっているという。
さて、22時ちょうどに現地に着き入店すると、お!ライヴを終えたBEGINがすぐ近くの席で打ち上げをやっているではないか。それにしてもBGMの喧しい店だ。大声を出さなきゃ隣の人ともまともに喋れない。これからみんなでシマ唄を唄いまくるんだから早く止めてくれよ...なんて思ってたら、幹事の女性が「すみません、BGMは止められないって言われちゃいました」という。何やらこの送別会を予約した当初は『貸切&楽器OK』という事だったにもかかわらず、後からBEGINがライヴ後の打ち上げをこの場でやる事が決まってしまったので、それを邪魔しないで欲しい、という事に変わったらしい。「約束が違うんじゃないか!?」...そう思ったが私は良識ある大人だし幹事ではないので大人しくしていた。
仕方なく幾度かの乾杯以外は歓談にふけっているとA君が「島ンチュがせっかく来ているのでBGMを無視して1〜2曲やって貰えませんか?」というので、主役に頼まれたらイヤとは言えんと思い、やらせて戴いた。最初に「朝花」、続けて「行きゅんにゃ加那」で島ンチュ達は大合唱状態。そして「稲摺り」ではノリノリになって...が、しかしお店側からストップをかけられてしまったのだ。「BEGINさんに迷惑がかかるじゃないですか!」だとさ...あぁ、感じ悪っ。
その後お店を変えて、夜中の3時過ぎからアフリカンダンスやらシマ唄やら八月踊りまで飛び出してすンごい盛り上がったもんね。
...あぁ体がツライ...。


ドアーズ 2003年8月10日

8/8『朝崎郁恵inドアーズ』...このライヴは楽しかった...。お客さんも満足して戴けたんじゃないかな。
打ち上げで行ったお店も安くて美味しいお店だったな〜。


リハ 2003年8月7日

明日のライヴに向け、昨日都内某所でリハーサルが行われた。
和太鼓の内藤さんと私以外はシマ唄の伴奏は初めての人たちなのだが、皆さん独自の世界を持っている素晴らしいミュージシャンで、かなり面白いシマ唄ライヴになりそうだ。シマ唄の特徴である『決めごとがない/伴奏は唄者に柔軟に合わせる』という演奏スタイルを打楽器の内藤さんと山北さんはもちろん、ピアノの井出さんやベースのJIGENさんまでいとも簡単にやってのけてしまう。「まるで唄遊びのように好きな所で唄が出せて気持ちよく唄える」と朝崎先生もご満悦。先生の声も伸び伸びしているし、何よりやっている側も楽しい。明日の本番が楽しみである。


八月踊り 2003年8月5日

夕方5:30からもの凄い雷雨。予定されていた屋外(河川敷)での八月踊りは中止となってしまったが、悪天候にもかかわらず集まった7名のメンバーで自由が丘の沖縄料理屋へ。
お店には常連の唄者・S山さんがいて、相変わらず沖縄民謡や新民謡・童謡などを唄い弾きまくっている最中だった。この人と私は何度もここでお会いしていて、一緒に唄遊びをした事もあるのだが、いつも酔っているS山さんは私の事など覚えちゃいない。まぁそんな事はどうでも良いのだが、今回はS山さんに奄美シマ唄の「黒だんど節」「行きゅんにゃ加那節」を沖永良部調で唄ってもらった。これが沖縄っぽい弾き方で大変印象的だった。しかし、このままの流れに身を任せていると“S山さんオンステージ”がいつまでも終わらないと思い、小島さんに八重山民謡をリクエストした。我々十五夜会の仲間である彼女は以前、八重山民謡を現地で習得してきた強者。そこで唄を少し披露して戴いたのだが、これが素晴らしく良い声である。『つんだら節』、『トゥバラーマ』、『デンサー節』の3つを唄ってもらったが、私は『トゥバラーマ』がよかった。我々はもちろんS山さんも店のママ(竹富島出身)も彼女の声に聞き入り、絶賛していた。さて、そんな感じで盛り上がってきた頃、ママが「アンタも弾いてよ」というので、持参していた奄美三味線をケースから出し、みんなでわいわい唄える唄をと思い『いとぅ』をやった。続けて『稲摺り』、『六調』など、掛け合いでやっているとS山さんは何やら大皿を持ち出してきて滑稽な踊りを見せてくれた。
そんなわけで八月踊りは出来なかったが。沖縄料理と唄遊びで盛り上がったのでした。


結ま〜る 2003年8月2日

結局、先週末の疲れを引きずったまま昨夜は我々マブリのシマ唄ライヴin結ま〜るに突入。しかし、今回は喜界島出身の人やその家族の方々がたくさん来てくれたせいか、曲間のMCで解説などをしていると「うんうん」と肯きながらキチンと聴いてくれる人が多かったのでとてもいい雰囲気で演奏でき、疲れなど吹き飛んでしまった。何より嬉しかったのは「楽しかった〜!」という声をたくさん聞けた事。「楽しくなきゃライヴじゃない!」ってことでこれからも頑張りま〜す。


シモキタのブルース・バー 2003年7月27日

7/26はシモキタで初ライヴ。ここ2〜3日疲れが溜まっているせいか、喉の調子がすこぶる悪い。しかし、真の唄者になる為にはそんな事を言っちゃいられない。
ライヴは三部構成。一部と三部が我々マブリ、二部が今回の『心太ライヴvo.1』の発起人ワタナbシンゴさん率いるブルースユニット・#4の出演だった。
ライヴは#4に我々マブリやハーピストのマスターが飛び入りしたり、最後は全員で六調を踊ったりと大変盛り上がったが、鹿児島からの疲れを引きずる私はもうヘトヘトになってしまった。暫く喜界の浜辺でボケーッと三味線を弾くなどしてのんびりしたい気分だ。


パーティ〜朝花 2003年7月26日

7/25夕方、羽田空港から自宅に戻りこの一泊二日の旅で溜まったメールをチェックすると、この日の夜に行われるあるパーティに遅刻せず出席するには、お茶一杯飲む時間もなく、すぐに着替えて出なければならなかった。このパーティとは私が17年前から4年間勤めていた某会社の送別会で、当時の懐かしい顔ぶれが揃うから是非参加して欲しい!と半ば強制的に誘われ、当時『イカ天』に出場した時の相棒も参加するから『ラッキーズ』の再結成ライヴ(といっても2曲だけ)もやってくれないか?という話も出ていたので、それは面白そうだと言う事で引き受けたのだ。
会場は新宿歌舞伎町。この日は25日(五十日)の金曜と言う事で道路が非常に混雑していた。車で出ると何時に着くか解らない。しかし週末の混んだ電車にギターを背負って乗るのもイヤだ。散々悩んだ挙げ句、スクーターで行く事にした。ところがこれが大失敗だった。渋谷を過ぎた当たりから雨がチラホラ降ってきて、新宿に着いた頃には本降りに。上着はズブ濡れ。バイクを停め、コンビニでビニール傘を購入し、予定の時刻ギリギリにパーティ会場へ到着。すると幹事しか来ていなかった!まったく、昔から時間にルーズな会社だが今でも変わってないじゃないかっ!
待つ事小一時間。雨で冷えた体に強めの冷房が応える。ようやく知った顔もチラホラ揃い始め、ラッキーズの出番に。司会が紹介すると昔のメンバー(=約10名)は盛り上がるが、我々を知らない人たち(=約50名)はベラベラ喋っていて何にも聞いちゃいない。「昨夜(鹿児島)は目の前に1000人からの人がいる場所で演奏したのに、今日の方が確実にやりづらいな」等と思いつつ何とかノルマの2曲をこなして下がった。
その後、13年振りにあった同僚に無愛想な態度をされて気分を害し、更には私を強引に誘った張本人が欠席と知り、これ以上この場にいても疲れるだけとこっそり帰る事にした。
さて、帰ると決めたは良いが外は依然土砂降りである。このままスクーターで帰るのもしんどいし、時間もまだ早いので雨が落ち着くまでどこかで時間つぶしは出来ないものかと考えた時に閃いた。つい最近オープンした唄者・森田照史さんのシマ唄酒場が近くにあるはずだ。『新宿区役所すぐ近く・地下2階・店名は朝花』と、うろ覚えながら暗記していた3つのキーワードを頼りに探してみると簡単に見つけられた。店に入ると先客が6名。知り合いはいなかったがカウンターの中に森田さんと並んで唄者・安原ナスエさんがいる。こちらも初対面。早速カウンター越しに森田さんから三味線を渡され「取りあえず朝花節でも唄いなさい」と言われ、「では」と僭越ながら朝花を唄い始めると安原さんが相方を務めてくれた。何節か掛け合った後、<注1>「汝きゃ唄、伺だんなりば、半鐘ぐわぬなり御声〜」と私が唄うとカウンターの奥で料理をしていた森田さんが「唄を誉められたら三味線を誉める唄を返さなきゃダメよ、ナスエ姉ぇ!」と出てきた。料理をしながらも歌掛けの文句までキチンと聞いているとはさすがである。ここで2時間ほど唄遊びをし、美味しい油ソーメンを食べて店を出た。
外に出ると雨はまだパラついている。ギターだけはどうしても濡らしたくないのでコンビニで45リットルのゴミ袋とビニールテープを買い、それでギターケースをグルグル巻きにした。かなり格好悪いが、そんなこと構っちゃいられない。ギターが濡れたら取り返しのつかない事になるのだ。
そして雨の中、再びズブ濡れになって(でもギターは大丈夫)、夜の街道をひたすら走って家路についた。速度を上げるとギターをくるんだビニール袋がバタバタとうるさいし、体に当たる雨粒も痛いので時速50キロ位で走っていると、背後から意地悪タクシーがパッシングやらクラクションで煽ってくる。そんな悪条件の中、体の芯まで冷え切って帰宅した時は既に深夜0時を回っていた。翌日はシモキタでライヴである。熱〜い風呂で体を温め、翌日に備えるのであった。

解説:
<注1>「あなたの素晴らしい声を聞きました。まるで半鐘のような美しい声ですね」と相方の唄声を誉める歌詞。


桜島からの朝日(携帯カメラで撮影)鹿児島 2003年7月25日

7/24朝、羽田より鹿児島へ。肌寒い東京から気温差10度以上の蒸し暑い鹿児島空港に到着するとワゴンタクシーで一路MBC(南日本放送)を目指す。MBCに到着すると用意された弁当で遅い昼食をとりながら関係者とご挨拶。この後朝崎先生はラジオの収録へ。私とピアノの高橋さんはホテルへと向かう。夕方になるとタクシーで3分くらいの会場へ向かいリハーサル。西陽が強くてもう汗だくだ。リハ終了後再びホテルに戻り本番まで小休止。中途半端な時間を持て余し何もしないと寝てしまいそうだったので、リハで切れそうだった2弦を張り替える。いつもはライブの寸前に弦を張り替えるなんて事はしないのだが、本番で切れてしまったらどうにも出来ないのでトライしてみた。新しい弦でも張った後に充分伸ばして馴らしておけば大丈夫のようだ。それから持参した衣装(浴衣)に着替え、朝崎先生の部屋(オーシャンビュー)に遊びに行き、メイク中の先生と桜島を拝みながら世間話を交わす。そしていよいよ本番の為タクシーで会場へ。信号機が止められ警官が交通整理をしている周辺の道路では浴衣を着た人々が続々と会場へ足を運んでいる。驚いた。これほどまでに大きなイベントとは思っていなかった。バックステージにはコンテナの楽屋(冷房完備)が用意されていた。本番が始ると私は誰よりも先に舞台に上がり、シャミを抱え椅子に座って先生の出番を待つ所謂『板付き』状態。間もなく「今日のほこらしゃ」を唄いながら先生が登場。いつ聴いても惚れ惚れするような声だ。そして2曲目の「朝花節」。打ち合わせでは3節の予定だったが、先生は4節目を唄う。まぁこんな事はよくある話で、決めごと通りにやったのではシマ唄なんてつまらない。朝花節が終わると興奮した一人のオジさんがステージに駆け寄ってきて先生に握手を求めた。恐らく島ンチュの方だろう。微笑ましい光景だが、その方はすぐ警備員に引き戻されてしまった。可哀想に。ステージは順調に進み後半「稲摺り節」になると、かなりの方々が踊り出し、「六調」では1mはあろうかという高い舞台を飛び上がって乱入し、豪快な踊りを見せてくれたアニョもいた。
さて、そんなこんなで朝崎先生が鹿児島市内で行う初のライブは大盛況に幕を閉じ、ホテルで着替えを済ませた後、我々は打ち上げの場へ。MBCの方々が大変美味しい料理でもてなしてくれたので、すっかり盛り上がってしまい、店を出たのは深夜0時を回った頃だった。実は打ち上げが早くお開きになったら天文館の奄美料理屋に行って唄遊びを見学しようと思っていたのだが、あまりにも時間が遅いので渋々諦めた。天文館は7年ぶりなので行きたかった。ヒジョ〜に残念。その後部屋に戻って寝ようとしたのだが、布団が変わるとなかなか寝付けない。TVで大リーグ中継を見ていたらドジャース石井が滅多打ちにあっていたので益々眠れなくなってしまった。3時頃にウトウトしてきてようやく眠れたかと思いきやカーテンを開けっ放しで寝ていたので朝日の眩しさで6時に目が覚めてしまった。この後復路の機中で爆睡だったのは言うまでもない。


マック(関西ではマクド) 2003年7月16日

数年ぶりに朝マックしたら気持ち悪くなった。もうあんなモノ食べられない...。


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