管理人の日記です

前の日記[2001年前半]
次の日記[2002年前半]


ギター 2001年12月20日

「千鳥浜(ちじゅりゃはま)」ギターアレンジ・バージョンの評判がすこぶる良い。これは朝崎先生とピアニスト・高橋全さんが出したCDに収録されている「千鳥浜」を私なりにギターでアレンジしたものだ。大本の「千鳥浜」は太鼓だけの伴奏で唄われるものだけに、コードの付け方やアレンジは幾らでも考えられそうだ。
しかしギターをフィーチャーしたアレンジが評判良いと言う事は、八月唄も島唄同様、弦楽器による伴奏が一番しっくりくるのかも知れない。
次は喜界島の八月唄をギターでアレンジしてみようと思っている。乞うご期待!である。


生涯学習センターライブ 2001年12月16日

生涯学習センターでのライブを終えてきた。
今回はいつもやっている蛇皮線+ジンベという組み合わせに、エレキベースを加えたユニット。おそらく奄美島唄のライブでは今まで誰もやっていないのでは?と思われる。
まずは私と奈良氏の二人でいつものように5曲ほど演奏。そのあと私が抜け、ベースの鈴木氏とジンベの奈良氏二人によるインプロ(即興演奏)を2曲ほどやって貰った。一曲目はインド音楽のようなスケールでベースが始まり、それにジンベが絡んでいく。ん〜格好いい!そして2曲目は鈴木氏の真骨頂B♭のスイング。途中でクリスマスソングをちょっと挟んだりして。巧いね。お客として聴いていてとても気持ちよかった。
さて、そのあとが三人での演奏となったわけだが、まずはノリの良い所で「渡しゃ」から。この曲はベース・ソロを間奏に挟んだりしてなかなか良い仕上がりだったと思う。次に「いとぅ」。鈴木氏は抑え気味の演奏だったがベースが入る事でロックっぽい印象となり、いつもとは違った「いとぅ」とお届けできたのではないか。続いて「千鳥浜」。この曲は私が蛇皮線からギターに持ち替えるのでベースとは一番相性の良い曲だろう。予想通り、ライブ後にスタッフやお客さんから「あの曲は良いですね〜」と言われた。そして最後に「豊年節」。これは鈴木氏が打楽器っぽく弾いてくれたので面白いアレンジになった。
リハは1回だけ。しかも準備期間がほとんどなかった割には、今回の試みは楽しかったしウケがよかった。私はこの三人のユニットは「今回だけ」と思っていたのだが、スタッフや鈴木氏が「これからもどんどんやろう!」と言ってくれたので、意外でもあり嬉しくもあった。今後このユニットでひと味もふた味も違った島唄を追求できるかも知れない。


スタジオ・ミュージシャン 2001年12月15日

昨夜、自由が丘のスタジオで録音をしてきた。二つ前のコラムで書いたCDの録りである。永田氏は私の家に近い所という事で自由が丘のスタジオを取ってくれた。アリガタヤ、アリガタヤ。
スタジオは20時から23時までの三時間おさえてあるというので私は「一曲だけだから充分だろう」とタカをくくっていた。しかし、世の中そんなに甘くはなかった。
まず、私と同行した『文化の宅配便』プロデューサー・池田氏とスタジオ入りすると、永田氏が黙々とセッティングしているのが受付のモニタで見る事ができた。このセッティングやらご挨拶やらで小一時間、そしてイントロ部に若干の変更があった為その練習に約40分と、それだけで半分の1時間半が過ぎてしまった。
結局、課題曲を前半・中盤・後半の3つに分けて録音する作業を3回行った。別に緊張はしていないのだが、密室に籠もり同じフレーズばかり弾いていると自閉症になったような錯覚に陥る。しかも今回は伴奏だけなのでイントロとエンディング以外はずっと同じフレーズを引き続けるのだ。右手首が痛かった。「スタジオミュージシャンは偉いんだなぁ」なんて考えながら演奏していた。
何だかんだ言いながらも永田氏のOKをいただき、伴奏部分は終了。年明けに蛇皮線ソロをかぶせて録る事になった。正月休み中に稽古しようっと。


島唄+エレクトリック・ベース 2001年12月3日

以前、ひょんな事から知り合いに紹介されたEベース奏者・鈴木コウユウ氏と一緒に蛇皮線でライブをやってみないか、との依頼を受けた。『港ユネスコ協会』というアフガンのボランティアを行っている団体だという。米国のバークレー音楽院を出ているスーパーテクニシャン・鈴木氏とライブが出来るとは何と素晴らしい。
そしていつも私と組んでいる相方のジャンベ奏者・奈良氏にも出演を依頼したら快く引き受けてくれた。
エレキベースと奄美の蛇皮線、そしてアフリカのジャンベ。まさに異種格闘技だ。これは面白い音楽になりそうである。12/16のライブが楽しみである。


CD 2001年11月25日

朝崎先生がプロデューサー&キーボード奏者の永田氏とCDを作る事になった。伴奏は基本的にシンセなのだが、その中で1曲だけ私も三線で参加する事になった。曲は『一切朝花節』である。
そしてその一曲を練習するために永田氏はわざわざ私の所まで重いキーボード持参で来てくれたのだ。そして今回のCDにかける熱意を蕩々と語ってくれた。素晴らしい。ただ“売る”為だけのCDではない。曲を吟味し歌詞を吟味し曲順を吟味し、さらには演奏者を吟味して作るという。そんな仲間に私も入れて頂き光栄仕切りである。録音は12月12日に行うという。楽しみだ。
ただ、永田氏は変わった所があって、私が何気なく「一切朝花節」の前奏を弾き出すとキーボードを弾くのではなく、いきなり踊り出したりする。あれには驚いた。それだけでなく、話をしていたらどこからか季節はずれの“蝉の鳴き声”が聞こえてきたので「おや?」と思っていると、それは永田氏の携帯の着メロだったのだ。蝉の鳴き声を着メロにしている人は初めて見た。


唄者 2001年11月4日

昨夜、新宿で行われた島唄関係のある会に参加してきた。そこに瀬戸内町生まれのFさんという人がいた。54歳の男性である。私から見れば親子ほど歳の離れた大先輩であるがその人は高飛車なところが一切無い。同じ目線で話して下さる物腰の柔らかな人だった。そして、唄を聞いてビックリ。素晴らしい声を持っているのだ。しかも、「いそ加那節」「嘉徳なべ加那節」「曲がりょ高峠節」などの難しい曲も軽く唄いこなす。
だが、「唄遊びは好きだけど、演奏者と聴き手に分けるコンサートスタイルは大嫌いだ」と言う。Fさんの気持ちはとてもよく解るが、何かもったいない気がしてしまう。もっとたくさんの人にFさんの唄を聞いて欲しいと思った。


喜界島へ 2001年11月2日

行ってきました。喜界島・川嶺集落の島遊びへ。
この旅で最も印象に残ったのは島遊び二日目の晩である。その時の事をご紹介しよう。

集落内に蛇皮線奏者がいなくなった川嶺集落ではここ数年、他の集落や大島本島から唄者や蛇皮線奏者を招き、島遊び二日目に『島唄コーナー』としてミニライブを開催している。今回のゲストは今年10月にリリースされたCD『心に残る喜界の島唄』で唄っている喜界町・志戸桶(しとおけ)集落の唄者・菅沼節枝さん、同じくこのCDで蛇皮線を弾いている上嘉鉄(かみかてつ)集落の田中働助さん、そして城久(ぐすく)集落の唄者・生駒あさえさんである。
今回の旅の前にそのCDを入手してから毎日喜界の島唄を聞きまくっていたので、すっかり菅沼さんと働助さんのファンになってしまっていた、また、生駒さんは私の祖父のビデオコレクションの中にあった「第二回島唄の夕べ」というビデオ(注1)で以前から拝見していたので、私にとっては大変嬉しいゲストであった。
この3人による演奏は「朝花〜俊良主〜黒だんど」とお約束の3曲(注2)から始まり、最後の「六調」まで7〜8曲と短い時間ではあったが、楽しませていただいた。

さて、お祭りがハネた後、働助さんから「今晩、この近所で唄遊びをやるから君も来なさい」とお誘いを受けたので、遠慮無く伺わせていただいた。
この時の唄遊びが私の中では「伝説のライブ」となるほど素晴らしく楽しく且つパワフルなものだった。
二人の唄者が重なり合うように次々と唄いあげるので「朝花節」だけで軽く20節くらいは唄う。これは後半に唄われた「天草」や「六調」も同様だった。二人の唄者が次々と唄うので1曲がなかなか終わらない。泉のごとく歌詞が湧いて出てくる。当然、歌詞カードなんて見ていない。曲数は少なかったが1曲をじっくり堪能でき、大変よかった。
また、同席していた川嶺のお姉さま方(下は70から上は77歳)の滑稽な踊りと盛り上げ方がすごかった。特に「隧道工事の唄」(注3)では全員が唄い踊り、そりゃもうすごい盛り上がり方だった。私も腹がよじれるくらい笑わせていただいた。
(この唄遊びの模様は諸々の都合によりビデオカメラ・デジカメ・MDなどによる収録に全て失敗してしまった。本当に悔やまれる。)

(注1)平成元年録画。川嶺集落の蛇皮線名人・河野栄一郎さんの伴奏で生駒さんがひたすら唄いまくるという内容のビデオ。生駒さん宅にての収録である。もちろん自主制作。私にとっては唯一、喜界島唄を覚える糧のお宝ビデオである。“第二回”があると言う事は“第一回”のビデオがどこかに存在するのだろうか。あったら是非手に入れたい。

(注2)唄遊びでは普通「朝花節」で始まり、次に「俊良主節」、続いて「黒だんど節」と唄うのがお約束となっている。

(注3)記憶が曖昧なのだが確か「セイラン節」というタイトルだった。戦時中にトンネル掘りをしながら唄った曲だという。今回は録音に失敗したが、次回は必ず録ってくるつもりだ。


結ま〜るライブ 2001年10月20日

昨夜(10/19)は恒例の結ま〜るライブだった。
お客さんの入りは今までで一番悪かったが、皆さんとても真剣に唄やMCを聴いてくれ、最後の六調でも大変盛り上がった。
ライブの後、お客さんの中で何人かの人が私にいろいろと島唄のことや奄美三味線の事について質問をしてきた。質問をしてくると言うことは「興味がある」と言うことだろう。こんな時は嬉しくて一生懸命質問に答えてしまう私であった。


心に残る喜界の島唄 2001年10月18日

今年も島遊びの日程に合わせて、10月28日から〜31日まで喜界島に行くことになった。
そこで事前に現地の最新情報を得ようとネットでいろいろと調べていると『喜界の島唄』なる項目が引っかかってきた。それは『グループYON』なる団体が喜界島の島唄を自主制作CDで残していると言う情報である。視聴も出来るので早速聴いてみると、「朝花節」「俊良主節」「黒だんど節」など有名な曲はもちろん、「志戸桶まんこい節」や「田植え唄」など初めて聴く曲も入っていたので、是非欲しい!と思い「私は喜界生まれの祖父を持つ蛇皮線弾きで、東京で活動しております」と自己紹介を兼ねて購入希望のメールを出した。
すると代表のNさんから「仲間が集まって昔の映像、音声、唄など今のパソコンを使って何とか残そうとCDを作ってみました。」との返信が来た。過疎化の進む祖父の故郷でこういう人たちがいると言うことを知って、なんだかとても嬉しい気持ちになった。CDが届いてからは毎日聴いている。
因みに今日は私の誕生日。思わぬ素晴らしい誕生日プレゼントになった。


鹿児島県人会 2001年9月22日

今日は大田区池上会館で行われた“大田区鹿児島県人会”に参加し、3曲ほど伴奏をしてきた。唄者は朝崎先生のお弟子さんでもある登さんである。登さんの伴奏はいろいろな会場で何度もしているので問題ないのだが、舞台にモニターがなかったのは辛かった。自分の音が客席経由で耳に入ってくるので少々ずれるのだ。もう一つ困った事は、見ず知らずの人が(気を遣ってくれたのか目立ちたかっただけなのか)太鼓を叩きだした事だ。リズムが合っているなら嬉しいのだが、非常にリズム感の悪い太鼓で引きずられないように演奏するのに疲れてしまった。

それよりも驚いたのは、会場に来ていた顔見知りのKさんが若い女性を紹介してくれたのだが、それが“元ちとせ”さんだった。顔を見ただけでは全く気づかずに最初「島唄はどこで習っているんですか?」などと失礼な質問をしてしまった。しかし、そんな無礼な質問にも嫌な顔一つすることなく、とても感じ良く爽やかな娘で、声だけでなくさらにファンになってしまった。。。


沖縄のおばぁ 2001年9月21日

五反田の沖縄料理屋『結ま〜る』が五周年記念イベントを行うと言う事で呼ばれたので参加してきた。
そこには常連さん達や、いつもの“わいわいライブ”出演者たちが集結していた。そんな中にひとり大浜キクさんという沖縄のおばぁがいた。
その方は御年八十にして琴・唄・三線・太鼓をこなす素晴らしいミュージシャンであり、驚かされたのはそのバイタリティだ。喋ること喋ること...。しかも話が面白いのだ。歴史的なこと、方言の意味、下ネタまでを一人でズーッと喋るのだ。私が80才になった時にこれほどのパワーが残っているだろうか...。
沖縄のおばぁに圧倒されながら夜は更けていった。


唄遊び 2001年8月24日

大塚の「そてつ」にて唄遊びがあるから参加しないか、とのお誘いをいただいたので三味線を担いで行ってみた。二階の座敷は数十名の人でいっぱいだ。
森田照史さんやそのお弟子さんの姿も見える。中君も来ていた。
どういう集いなのかわからぬまま、なんとか顔見知りの人を見つけて座ると、ギタリストの春日博文氏を紹介された。カルメンマキのバックやRCサクセションのヘルプとして70年代に大活躍した人で私の憧れの人だ。そして今でも格好いいオジサンである。緊張してあまり喋れなかった。
「何か一曲やってくれ」と言われたので僭越ながら『喜界渡しゃ』を一曲だけやらせていただいた。

鶏飯(けいはん)を久々に食べたがとても美味かった。何故か奄美空港を思い出した。


島唄ライブ 2001年8月23日

今日のライブは凄かった。会場は立錐の余地もないくらいの超満員。それもその筈、唄者に朝崎先生と中君、ピアノに高橋全氏、打楽器に和田啓氏と豪華な顔ぶれだ。そんな方達と共演できて何て私は果報者なんだろう。

第一部は三味線中心、第二部はピアノ中心の選曲で、朝崎先生と中君の声を充分に堪能できるステージだった。最後の六調でもお客さんがステージに上がり踊りまくる(中君のお母さんもステージに上がって踊っていた)など、ノリノリの2時間半だった。
高橋さんも言っていたが、今まで自分の経験した島唄ライブの中で一番盛り上がった。演っている側も本当に楽しいライブだった。


リハーサル 2001年8月22日

明日のために三鷹で練習を行った。朝崎先生は欠席だが、高橋・和田両氏と中孝介(アタリコウスケ)君が参加する。その中で中君とは初対面である。
数ヶ月前、彼の唄声を初めてCDで聞いて一度でファンになってしまった。「すごい」の一言だ。21才という若さながら渋くて枯れた声で唄う。まさに天才だ。
彼こそ『百年に一度の唄者』ではないか。
予想通り生で聴く彼の声は素晴らしいものだった。そんな天才唄者と明日共演できるのである。嬉しい限りだ。


結ま〜るライブ 2001年8月15日

8/10(金)、五反田・結ま〜るにてライブを行った。結ま〜るではもう何度もライブをしているし、奈良氏は「打てば響く」ので、とてもやりやすい。また、お客さんのノリもよかったので、やっていて楽しかった。
前回(6/15)も今回も1曲ずつ新しいレパートリーを増やしてきてはいるが、これからは二人で出来るレパートリーをもっともっと増やしていき、少しでも多くの名曲を皆さんに聴いていただきたいと思っている。


披露宴〜七夕結サー本番! 2001年8月6日

8/4(土)は大忙しだった。午前中は仕事、その後帝国ホテルで行われた友人の結婚披露宴に参加。『黒だんど節』を唄い新郎を涙ぐます事に成功。そしてそこから相模原市橋本に移動。本番ギリギリに到着すると簡単なマイクチェックだけですぐに本番となった。

お芝居の合間に島唄が入る形となったこの日のステージだが、最後の六調ではオーディエンスも演奏者もノリが良く、公演も大成功に終わり、プロデューサーはじめスタッフの方達も大喜びだった。久々の野外ステージで演奏していてもとても気持ちよかった。


七夕結サー(たなばたゆいさー)  2001年7月31日

8/4(土)相模原は橋本で行われる『七夕結サー』のリハーサルに参加してきた。私の出番はお芝居の所々で朝崎郁恵さんが唄う場面での伴奏のみだが、最後に音楽隊全員でやる“六調”が圧巻だ。
朝崎さんの唄はもちろん、キーボード、ジャンベ、トロンボーン、三味線、7名の和太鼓と迫力満点で、唄が入る時は純粋な“六調”風、それ以外の部分はジャズ風となるのが面白い。そしてこれが約15分間続くのだ。各パートのソロもあり(私の三味線ソロもある♪)演奏していて非常に楽しかった。また、初めて合わせたのに音楽隊のノリもかなり上々だ。本番が楽しみである。
しかし、橋本は遠かった...。


わいわいライブ  2001年7月28日

昨夜は五反田『結ま〜る』での“わいわいライブ”に飛び入り参加してきた。しかし、騒がしい酔っぱらいが多かったので集中できず、とてもやりづらかった。
3曲ほど演奏して客席に戻ると、店の常連である中年女性が来店し、私の隣に座って挨拶をしてきた。
今まで何度か私のライブを見てくれたらしい。「今日は3曲だけでしたが、もう終わっちゃいました」というと大変残念がって、また「奄美島唄は素晴らしいですね。先日のライブを聴きましたが鳥肌が立ちました」と言ってくれた。
こういうお客さんの声を聞くと「これからも頑張るゾ!」と思う。 そんな私は単純だろうか??


ライブ  2001年7月21日

昨夜のライブは大盛況だった。初めはレゲエやアフリカン・ミュージックを聴きに来ている若い世代のオーディエンスに、奄美の島唄は受け入れられるのか、と少々心配であったが、意外や意外、予想だにしない熱気と興奮に包まれてしまった。
そして何よりも嬉しかったのは対バンの人たちに「凄い音楽ですね。涙が出てきました」とか「とっても格好良かった」と言われたことだ。

やはり日本の古い言葉や生活臭を色濃く残す奄美島唄は、音楽をやっている日本人の心をくすぐる力があるのだろう。


天守物語 4 2001年7月15日

7/11(水)、天守物語がいよいよ始まった。全8回公演のうち私は7/13(金)夜の部、14(土)夜、15(日)の昼夜と計4回、出演した。役者の方達は台詞や間にドンドン磨きがかかり、回を追う毎に素晴らしいお芝居となっていく。特に千秋楽(本当は“千穐楽”と書くらしい)は同じ舞台の上から見ていても楽しく、素晴らしい出来だった。

ひょんな事から今回の演奏を担当することになったが、本当にいろいろ勉強になった。公演も大成功で特に万之丞さんの演出と音楽が評判良かったと聞き、そんな舞台に参加できて嬉しい限りだ。

演奏のことでいろいろとアドバイスを頂いたクンダン奏者(太鼓)の和田さん、いつも場を和ませてくれた中国笙の名手・銭(チェン)さん、またいつも親切にしてくれた松坂慶子さん、富田靖子さん、花柳先生、厳しく指導してくださった演出の万之丞さん、「今度、島唄ライブ聴きに行くわよ!電話ちょうだいっ」と気さくに携帯番号までくれた李麗仙さん、そしてスタッフの方々には心から感謝する次第である。


天守物語 3 2001年7月7日

昨日今日と再び梅若能楽堂での稽古である。演奏だけの部分は多少楽しんで出来るようになってきたが、問題は唄う部分だ。一つはアドリブで「♪ハレィ〜」と唄うところ。出だしを無伴奏で唄わなければならないのでどうしても音程に自信がなくなる。ツライ。松坂さんが気持ちよく登場できるようにもっと練習しなくては...。もう一つは“豊年節”の替え歌を歌う場面である。どうしても本物の豊年節が体に染みついていて、替え歌の詞をトチってしまう。ここは踊りの場面なので唄がトチると踊りが揃わなくなってしまうのだ。結局、稽古後のダメ出しでこの場面は松坂さんはじめ俳優さん達が唄ってくれることになった。よかった、これで伴奏に集中できる。


天守物語 2 2001年7月5日

いよいよ今日から通し稽古に参加だ。ドキドキしながら五反田のオペラ・ナイン・スタジオへ。「なんだ“結ま〜る”のこんな近くにスタジオがあるのか」なんて思いながらスタジオ入り。右も左もわからぬまま太鼓の人と笛の人の間に座る。台本を目で追いながら音を入れる場所(蛇皮線を弾く所)の指導を受ける。...やはり難しい。一番手こずったのはアドリブで「♪ハレィ〜」と唄うところだ。これに合わせて主役の松坂慶子さんが登場するのである。何と責任重大な場面だ!案の定、緊張から音痴気味になり赤っ恥をかく。半パニック状態のまま6時間が過ぎ、あっという間に稽古は終わった。


天守物語 1 2001年7月4日

ひょんな事から7/11〜15渋谷能楽堂で行われる『天守物語』の演奏をやらないかとお声がかかった。
「これは面白そうだ」とすぐにOKの返事を出してはみたが、いざ稽古を見学してみると「これは大変なものを引き受けてしまった...」と思った。
とにかく芝居に合わせて演奏する事の難しいこと難しいこと...。ライブとは大違いである。
ライブは一方的に演奏して唄って、と言うものだが、お芝居は違う。役者さんの動きを見ながら唄ったり弾いたりしなければいけないのだ。『間』が悪ければお芝居をブチ壊しにしてしまう。
今日初めて東中野の駅を下り、初めて梅若能楽堂に入り、初めて通し稽古を見学して、そして責任の重さに胃が固くなってしまった。
若い役者さんが演出家に怒鳴られている。恐い。でも当たり前だ。みんな真剣なのだ。
明日からいよいよ私も実際に演奏するのだ。どうなることやら...


戻る