管理人の日記です

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島唄ライブ 2001年6月18日

6/15(金)、五反田・結ま〜るにてライヴをおこなった。私と奈良氏、二人でやる二回目のライブである。
補助席が用意されるくらいの超満員御礼に一瞬喜んだが、実は十数名の宴会予約が2組入っているとの事。イヤな予感が...。
第一部を開始してすぐにそのイヤな予感が的中してしまった。予想通り、その宴会グループ2組は音楽など何も聴いちゃいないし、我々を見ようともしない。ひたすら酒と会話に夢中である。演奏に全く集中できない。とにかく騒がしいのである。仕方なく我々は予定よりも早めにわずか37分で切り上げてしまった。
その代わりといっては何だが、宴会グループが帰った後の第二部ではたっぷりと80分間やらせていただいた。やはりキチンと聴いてくれる人たちの前で演奏するのは気持ちのいいものだ。


奄美料理店 2001年6月12日

先日、大塚の奄美料理店『そてつ』にて森田三味線教室があると聞いたので、様子を見にお邪魔してきた。
二階のお座敷を借り切っての稽古を見学した後、生徒さん達と一階で一杯やる事になった。
壁を見ているとメニューがかなり豊富である。奄美の代表的な料理『鶏飯(けいはん)』はもちろん、私の好きな豚みそや山羊汁まで揃っている。嬉しいじゃないか!そして、驚かされたのはマスターが私の祖父と同じ喜界島出身だと言う事だ。しかも、マスターは祖父と顔見知りであった。世間は狭いものである。
嬉しくなってしまった私は、遅れて登場した森田さんとマスターのリクエストにお答えして、「朝花節」や「黒だんど節」「喜界渡しゃ」などを弾き、唄った。「島唄」や「島育ち」ではみんなで大合唱状態になった。マスターはすぐに店の有線を止め、楽しそうに踊ってくれた。やはりこういったノリは一番楽しい。

そんなこんなで短い時間のドンチャン騒ぎを終えると、カウンターに座り一人で飲んでいた老紳士が話しかけてきた。
「私は奄美民謡は全然知らなかったが、偶然にも今日始めて聴けてとても良かった。そして、君のような若者が民謡を弾き唄うとはおじさん感動したぞ」と言ってくれた。...これだから島唄はやめられない。演奏して自分が楽しいのはもちろん、周囲にいる人も喜んでくれるのだ。日本人のDNAがそうさせるのだろうか???


ライヴ 2001年5月7日

4/27(金)のライヴは、朝崎さんが出ないと言う事で予約をキャンセルしたお客さんが何組もあったと言う話だったが、その割には、お客さんも結構入り、好評だった。

それで早速お店から次のライヴの依頼があった。6/15(金)だ。後ひと月ちょっとしかない。
指と声帯が固くならぬよう練習に励まなくては...


リハーサル2 2001年4月8日

太鼓(ジンベ)の奈良氏と私で「結ま〜る」にて2回目のリハーサルをした。
4/27(金)の結ま〜るライブに朝崎さんが出演できる可能性が低くなってしまったので、九分九厘、当日は私と奈良氏の二人でやることになると思う。

やはり朝崎さん目当ての方は来てくれないのだろうか....


森田三味線教室 2001年4月3日

新宿で行われた森田照文氏の三味線教室を覗かせていただいた。
森田氏とは昨年(2000年)の喜界会で一度お会いしただけで、多分、忘れられているだろうと思っていたのだが、待ち合わせ場所に着くと「テル子姉ェの孫!」と私を覚えていてくれた。

森田さんは、行きゅんにゃ加那、俊良主節、いとぅ、などを唄ってくれた。さすがに味のある歌声だった。


リハーサル 2001年3月25日

太鼓の奈良氏と私で「結ま〜る」にてリハーサルをした。
4/27(金)のライブまでは1ヶ月以上もあるのだが、唄者の朝崎さんが当日出演できなくなるかも知れないので、急きょ私と奈良氏でレパートリーを確認したというわけだ。

奈良氏は先月、奄美大島に行って来た。初めて現地の唄遊びに参加し、とても興奮したそうだ。また、現地で貴島君や中君など、若手唄者たちの唄も聞くことが出来、大変満足したようだ。


NHK金曜特集3 2001年3月23日

番組の中で宮古島代表として紹介された国吉源次氏の台詞は強烈だった。
「あなたにとって唄とは?」の質問に対して「島唄は辛い生活を忘れるための“憂さ晴らし”ですよ」と言い切った。
そしてこのあとの言葉が印象的だった。
「首里城を見た時は
ムカつきましたよ。宮古人を苦しめて、自分達はこんなに良い生活しやがって。ムカつきましたよ

いつの時代も搾取する側とされる側がいる。
弱者から税金という形で搾取した国の金で競走馬を何頭も所有し、女にマンションまで買い与えていた輩がいるのだから、今も昔も基本的には大して変わりない。本当に
ムカつく


NHK金曜特集2 2001年3月21日

番組の中で奄美代表の武下氏を紹介する際、サブタイトルには「哀愁の裏声」とあった。
「薩摩藩に苛酷な労働を強いられていた影響で奄美民謡はもの哀しい」と言う話が武下氏の口から出ると思っていたが、氏はインタビューの中でそれにはあまり触れようとしてなかったので、少し意外でもあったが、ホッとした。

一般的に、奄美の人が奄美民謡を語るときには薩摩藩への恨みつらみが必ず出てくるものなのだが、私の場合、母方の先祖が奄美、父方の先祖が鹿児島(薩摩)なので、あまり薩摩藩のことを悪く言われたくないし自分でも言いたくない。「搾取する側にもそれなりの理由があったのだ」と思い、ちょっと調べてみると、やはり当時の薩摩藩は相当深刻な財政難に悩まされていたのだ。下記の表が薩摩藩の財政を逼迫させた主な構造的問題である。

問 題 内 容
(1)武士が多い 薩摩藩では人口の5人に1人が武士であった。これは当時の全国平均の5倍であった。この武士は純消費者であり、生産高増加の障害となった
(2)実質石高の低さ 薩摩藩の名目石高は72万石だが、これはモミ殻も含めたもので、実際の石高はその半分程度しかなかった。にもかかわらず、藩は面目を保つため、諸行事等を名目石高にあわせた規模で行ってきた
(3)幕府による負担増 幕府は薩摩藩の財力を減らすため、盛んにお手伝い普請を課した。これによる出費がかさんだ
(4)相次ぐ災害 薩摩藩では台風、大雨、桜島の噴火などの災害が頻繁に起こった。これに対する復旧作業にも毎年、多額の支出が行われてきた
(5)借入れの増大 財政の資金不足に対して、返すあてのないまま、高利貸しから借金を行った。この借金の利子が雪だるま式に膨らんでいった

こうなるとやはり悪いのは幕府ではないか???


NHK金曜特集 2001年3月18日

2日前、NHK(BS2)で『琉球の魂を唄う』という2時間番組が放映された。琉球音楽界の重鎮たち3名+奄美民謡の大御所を紹介する番組である。
沖縄本島代表として登川誠仁氏、八重山からは山里勇吉氏、宮古からは国吉源次氏、そして我らが奄美からは武下和平氏が紹介された。それにしても、なんという大御所揃いなのだ!見ていてワクワクした。

一般的に沖縄民謡というと本島・宮古・八重山の3つに分類されるが、この番組では奄美民謡も仲間に入れて貰っていたのが何より嬉しかった。メジャーな沖縄音楽に比べ、いつも目立たぬ存在の奄美民謡を天下のNHKさん取り上げてくれて、制作側に感謝したい気持ちでいっぱいである。


キンカン 2001年3月14日

先日、コオル兄さんのビデオコレクションをいろいろと物色していたら、「塩道長浜節・竹島信一君」と書いてある古いビデオを見つけたので再生してみると、それは十年くらい前の「キンカン」が協賛している民謡番組の“第1回子供大会”であった。そしてなんと、その大会で優勝した男の子が昨年喜界島の島遊びでご一緒させて貰ったあのタケシマさんであった。ビックリした。


ナビィの恋(その2) 2001年3月11日

「ナビィ」とは外人のような洒落た名前だなぁ、と思っていたが、これは多分「ナベ」が訛ったものと思われる。
奄美民謡「嘉徳なべ加那節」も武下和平氏のライブビデオでは「嘉徳なびぃ加那節」となっていたし....
それにしても奄美の昔の女性は変わった名が多い。因みにコオル兄さんの母親は「あひとたる」という名だったそうだ。


ナビィの恋 2001年3月6日

映画『ナビィの恋』をビデオで観た。封切り時にロードショーで観たのだが、もう一度じっくりと観たかったのだ。
ストーリーはまぁ何処にでもあるような話なのだが、やはりあの空や雲、海、そして道端の石垣やカチャーシーを踊る地元の人たちがたまらなく『良い』。それはロードショーで観たときと同様、ビデオで観ても強く感じた。
そして何と言っても登川誠仁氏の声とサンシンの音が最高である。

この映画の舞台となった粟国島は『な〜んにもない所』と言われているが、私は別に普通の観光なんて出来なくてもいい。現地の唄が聴ければ十分満足なのだ。まだ行ったことのない粟国島、いずれ行きたいところの一つである。


譜面 2001年3月5日

譜面をとっていていつも思うのだが、どうにかPC上で譜を管理できないものだろうか。
五線譜エディタは世の中にたくさん存在するが、三線譜エディタなる物は未だ聞いたことがない。そんなある日、NETで探していたら『文化譜』エディタを見つけた。シェアウエアである。早速DLして試してみると...やはり島唄では使えない。文化譜は内地の三味線用の物なので、奄美蛇皮線の細かい小技を表記できないのだ。これでは沖縄の工工四の方がまだ良い。
私が普段島唄の譜面として利用しているのはギターのTAB譜を三味線用に3本にした『三味線TAB譜』である。これは細かい技もキチンと表記できるので保存用としてはかなり優れているのだが、多分奄美蛇皮線の世界では私しか使っていない。
ということは、三線譜エディタはやっぱり自分で作るしかないのだろうか....


かんつめ節 2001年3月4日

最近また新たな曲にチャレンジしようと言う意欲が沸々と沸いてきたので、『今の風雲節』に続いて『かんつめ節』の採譜を終えた。しかし、ギターの譜面を作るのとはワケが違い、島唄の採譜をするのはその何倍も疲れる。
リズムがしっかりしていないからである。2分の2拍子だと思っていたら所々に2分の1拍子が入っていたり、ひどい時には2分の1.5拍子なんて時もある。だから神経を尖らせて集中する分疲れるのである。


海底遺跡 2001年2月24日

先日、新聞のテレビ欄を見ていたら「海底都市を探せ!〜100万円懸賞付き遺跡探索ツアー〜」みたいなタイトルを発見したので、私はてっきり与那国島海底遺跡の特別番組だと思い録画して寝たのだが、朝起きてその録画を見てビックリ、なんと舞台は喜界島だったのだ。
以前、与那国島海底遺跡の存在をTV番組で知ったときに「喜界島にも同様の遺跡があるらしい」という話は聞いて知っていたのだが、まさかTVで見る事が出来るとは思いもよらず、大変嬉しかった。...しかし喜んだのも束の間、番組を見ていくとどうやら「これから探すぞ」という趣向の物だと言うことに気づいた。しかもレポーターとなったタレントはM脇健児とS崎和歌子という中途半端なお二人。凄くメジャーでもないがそこそこ顔は売れている。ピントの外れたようなM脇のリポートとガラの悪いS崎の話し方は見ていてガッカリだった。
最終的に天候にも恵まれず、ダイバー数十名と鹿児島テレビのヘリまで出動したが海底遺跡は見つけられなかった。与那国島のような海底遺跡が喜界島の沖合に存在するなんて夢のある話だが、もし遺跡が見つかっても自然が手つかずで残る喜界島が観光客に荒らされるようになって欲しくないものだ。


沖縄料理店 2001年2月7日

今年に入ってから自由が丘2回、新宿1回と計3回沖縄料理店に行った。正月に味わった沖縄の雰囲気が忘れられなかったためである。しかし、新宿の店は何故かとても感じ悪く、嫌な思いをしてしまった。自由が丘では他のお客さんがあまり上手くない琉球舞踊や琉球歌を長いことやっていたので辟易としてしまった。上手だったらずっと聞いてても飽きないのだが...。
嗚呼、やはり現地に行かないとダメですね...。


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