- 島唄四方山話 -

その1:唄遊びでの唄い方 2005.6.6up
■はじめに
生まれ育ったのは東京であるが、毎晩のように祖父たちの唄遊びを見聞きして育った私にとって、本場奄美大島で唄遊びが廃れつつあるという事実を知った時にはかなりのショックだった。悲しい事に私と同世代かそれ以下のシマンチュにとって唄遊びというのは、話でしか聞いた事のないものになりつつあるようだ。
そこで今までいろいろな方からメールなどで受けた質問や祖父母や師匠から教わった事をここで紹介していこうと思う。

貴重な体験@:川嶺集落での唄遊び(中央でシャミを弾いているのが私)/2001年
■唄遊びでの唄い方@
喜界・川嶺集落では、他の集落同様まずは『朝花節』で宴が始まる。その場に居合わせた人の中で唄自慢の人が唄い出す。上の画像は2001年に喜界・川嶺集落にある祖父の生家で行われた唄遊びの模様。近所のオジィオバァに集まったのだが、男性陣は完全に聞き役で終始酒を飲んで女性陣の唄を静かに聞いていた。(因みに三味線を弾ける人は私以外にいなかった。)
女性陣の年齢は(当時)上が82才、下は75才(笑)。ほとんど全員が唄が上手い。しかし『唄者』と呼ばれる人たちではないので持ち唄は3〜4曲。(その3〜4曲がとても素晴らしいのだが。)
さて『朝花節』だが、一人がご挨拶の歌詞を歌えば次の人が「東京からお客さんがやってきた」という内容の歌詞を唄い、更に続く人が「若い男が来てくれて嬉しいね〜」と即興で面白可笑しく唄う。島口のよく解らない私以外はみんな大爆笑だ。聞き手は唄の上の句が終わると拍手、下の句が終わるとまた拍手をする。要するに1節で2回拍手をする事が暗黙のルールらしい。
また『行きゅんにゃ加那節』でも初めの5節くらいは既存の歌詞で唄い、その後は即興。ここでも面白可笑しい歌詞を唄い、座は大爆笑の渦となる。『俊良主節』や『黒だんど節』は難しいのでこのメンバーではあまり唄わないと言う。『糸繰り節』などシマ唄の中でも比較的ポップな曲を数曲はさんで『六調』となる。『六調』に関してはまた別の機会に書きたい。
■唄遊びでの唄い方A
生前祖父は東京在住のシマ出身者たちを集めて自宅で毎夜のように唄遊びをしていた。小学生だった私はそれは奄美の風習ではなく、祖父がただの変わり者で極度の宴会好きだからやっているものと思っていた。(因みに奄美に唄遊びという風習があるとは三十才を過ぎるまで知らなかった。)
その頃、祖父宅の唄遊びでよく唄われていたのが安里屋ユンタの奄美版『ちんだら節』である。厳密にはシマ唄とは違う唄なのだろうが、これは比較的誰でも唄える唄で、替え歌もハマりやすいので唄遊び向きなのかも知れない。七-七-七-五調(都々逸と同じ)の文句ならば巧いことハマるのでいくらでも応用が利くのだ。(例:立てば芍薬/座れば牡丹/歩く姿は/百合の花)
ある夜、唄遊びの真っ最中で『ちんだら節』で大いに盛り上がっている居間を横目に見ながら風呂場に向かうと、何と入浴を済ませて浴室から出て来てもまだ『ちんだら節』が続いていた事があり、この時は子供心に「ずいぶん長い曲だな」と思ったものだ。
このように、シマ唄に長けた者たちが揃わなかった時は前述「ちんだら節」以外にも「十九の春」や「島のブルース」などが唄われていたのを覚えている。その他「島育ち」や「永良部百合の花」なども人気曲だったようだ。
 さて、その他に私がかすかに記憶している唄遊びの場面といえば、唄自慢の二人が三味線を弾く祖父を挟んで座り、掛け合いで『朝花節』を唄っている姿である。片や諸鈍出身の男性、片や喜界出身の女性とあって同じ曲でもメロディが全く違う。そして男性が1節唄い終わるか終わらないうちに女性が被って唄い出す。お囃子を入れる時も同様だ。この被り具合が非常に格好良い。二人の掛け合いが重なり一本の波打った曲線のように感じられる。まるで予め計算されたか、充分なリハーサルを積んだかのような流れるような歌掛けだったが、ここで唄っているお二人が初対面と後で聞いて驚いた。

 


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