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前の日記[2002年前半]


ギターは打楽器だ! 2002年12月28日

昨日はY田氏から連絡があり「久々に食事でも」とお誘いを受けたので、酒を飲まない私はどこか料理の美味い所と考え「結ま〜る」で会う事にした。
このY田氏は本職はデザイナーだが、私の年の離れた友人でもあり、昨年12/16新橋でのライブと今年9/16原宿ピンクカウでの飛び入りを仕切ってくれた人でもある。今回は「来年2月に阿佐ヶ谷辺りで反戦イベントの企画があるので出演しないか」という話を持ちかけてきたのだ。メンバーは私と奈良氏とスーパーベーシスト・鈴木コウユウ氏の3名。また面白いライブが出来そうである。今から楽しみだ。
さて、そんな話はすぐに済んでしまい結ま〜るに到着すると中から演奏をしている音がする。扉を開けてビックリ、演奏しているのは我那覇ママと奈良氏じゃぁありませんか。そういえば年末スペシャルとして二人のユニットで何回かライブをすると言っていたのを思い出した。
店に入り食事をしていると案の定途中で「飛び入りしないか」とのお声が...。入浴とトイレ以外は三味線を肌身離さず持ち歩いている私はこの日も車にシャミを積んでいたので、気持ちよく数曲演奏させて戴いた。奈良氏とはいつも一緒にやっているので“ぶっつけ”でも全く問題ない。『一切朝花節〜いとぅ〜ちんだら三部作〜豊年節』とやった所で勘弁してもらった。その後、ママや常連・岡ちゃんらの演奏するカチャーシーで閉幕となり、お客さんはぞろぞろ帰っていったがそのさらに後が楽しかった。ママが新しく手に入れたというおニューのギターで、常連さん達としばらく遊んだだけなのだが、アリスやビートルズなどの往年のヒット曲を私が演奏すると合唱状態になる。これはちょっとした“唄遊び”状態だ。思い起こせば高校生の頃よくこんな事をして遊んでいたっけ〜なんて思いながら夜も更けたので帰還することに。同席したY田氏はこの変なギター唄遊びも大変喜んでくれた。
うちに帰ってから右手の人差し指がヒリヒリするので見てみると爪の付け根あたりの皮がむけてた。まぁ、あれだけ何十曲もギターを弾いたのだから仕方ない。昔あるギタリストが言った名言を思い出す。『ギターは打楽器だ』...大好きな言葉である。(何のこっちゃ)


本門寺 2002年12月22日

12/20は朝崎先生と高橋全氏のライブ『うたばうたゆん』に三味線奏者として参加させて戴いた。→ライブレポはこちら

幼少の頃から思い出の多い本門寺であるが、今年の正月にこの本門寺で大失策を演じてしまったのを思い出した。
正月二日、毎年恒例の初詣に家族と本門寺に来た時の事。敷地内に入ると参拝客の車で大渋滞が発生していた。ノロノロ運転でちょうど本殿(今回ライブを行った建物)の前にさしかかった時に私の車がエンストしてしまったのだ。情けない事にガス欠である。非力な弟がすぐに後ろから押してくれたが微妙な上り坂という事もあって車はビクともしない。一瞬パニック状態に陥ったがラッキーな事に正月で増員された警備員さん達が手を貸してくれ、車を端に寄せる事が出来た。私たち家族は車二台で行動していたので、もう一台の車で近所のスタンドにガソリンを買いに行き、事なきを得たが、大勢の参拝客の行き交う中でポリタンクのガソリンを入れる作業はとても恥ずかしかった。

今年のライブ活動はひとまずこの12/20で終わりである。あとはリハや稽古の予定がまだ少し残っているがライブはもう終わりだ。今年は元ちとせの大ブレイクと朝崎先生のメジャーデビューが重なったので、一般の方々に沖縄民謡と奄美シマ唄の違いが多少でもわかってもらえた年であったと思われる。
来年は奄美本土復帰五十周年という節目でもあるのでまた忙しくなるかも知れない。


忘年会 2002年12月19日

叔父が社長を務める会社(創立はコオル兄さん一世)の忘年会に参加してきた。私はこの会社の社員ではないので参加の予定は無かったのだが、夜になって叔父から突然電話で「今から来てくれ。三味線持って。」と誘われたのである。まぁ会場となった鉄板焼き屋も近所だし、<注1>社員もほとんど知った顔だし、祖母も参加しているようなので私も顔を出す事にした。
演奏したのは朝花節、チンダラ節の2曲だけだったが、<注2>叔父は大いに喜んでいた。祖父を思い出すのだろう。
そして11歳年下の従兄弟からオヒネリまでもらってしまった。

解説:
<注1>社員の一人にコオル兄さん一世のお弟子さんがいる。この人は奄美は諸鈍出身で唄が得意(もちろんシマ唄も)。民謡コンクールで『よいすら節』を唄い見事優勝した強者でもある。
<注2>大いに喜んで、カラオケで『ガッチャマン』や『宇宙戦艦ヤマト』を熱唱していた。五十代後半の人がよくこんな曲を知っているな〜、と感心してしまった。


個展にて 2002年12月11日

昨日は渋谷で行われた<注1>伊東孝志氏の個展に行ってきた。意外にも伊東さんは個展は初めてという。その初日であった昨日は一般の方はもちろん、関係者や友人知人で大いに盛り上がっていた。
そこで「お祝いにシマ唄を」という事で朝崎先生、永田さん、奈良さんとともに島唄を数曲披露してきた。会場は普通のギャラリーなので音響などは整っていない。永田氏のキーボード以外は生声生音での演奏となった。しかし、本来のシマ唄(唄遊び)は生音で行われるわけだから、それはそれでマイクを通した音と違い素晴らしいものがある。特に朝崎先生の歌声は...。
演奏した曲は以下の通り。
1.朝花節
2.曲がりょ高頂節(CD詩島バージョン)
3.いとぅ(CD詩島バージョン)
4.一切朝花(CD詩島バージョン)
5.六調〜天草
伊東さんの絵はどれも素晴らしい。私は絵の事はよく解らないが、どの絵も熱いものが伝わってくるような作品である。
会場には50人くらいの人がいただろうか。手踊りの出来る人も出来ない人もみんな思い思いに踊っていた。
そんな奄美の風景を描いた絵の中でやるミニライブ。とても貴重な体験をさせてもらった。

解説:
<注1>私も三味線奏者として参加しているCD『詩島〜うたじま〜』(朝崎郁恵)のブックレットをデザインしイラストを手がけたデザイナー。生粋の島ンチュで島唄を愛する心は人一倍強い。因みに伊東さんの父上はシマ唄保存の会『赤土の会』を創立した人である。


多忙な休日 2002年12月4日

一昨日はコオル兄さん(一世)の命日だったので、墓参りに行った。1998年12月2日にコオル兄さんが亡くなってからちょうど4年が経った。早いものだ。4年前は病院からの帰り道に富士山がとてもきれいに見えたのだが、今年の12月2日は天気が悪く夕方から雨が降ってきた。
その翌日、つまり昨日は朝から奈良氏と自主トレ。二人で2時間、掛け合いでひたすら唄う。朝から唄うのは気持ちいいが、身体が完全に目を覚ましていないし、声帯もまだ固いので裏声をたくさん使うと頭がクラクラしてくる。
午後は20日の本門寺ライブに向け、某スタジオにて朝崎先生・高橋全氏とのリハに参加。13時開始だったのだが、何を勘違いしたか14時だと思いこんでいた。自宅から歩いていける距離のスタジオだが「早めに行くか...」と13:30に家を出ようとしたところ高橋氏から電話が。「リハは13時からですけど、まだですか?」と。「えっ?!」時間を間違えていた私はひたすら謝り、急いで家を出た。前脛骨筋がビンビンに張るくらい大股早足で歩き、5分後スタジオに到着。ところがリハ自体はあっけないほど簡単に終了。ピアノと三味線を合わせる必要のある曲は少ないから当然と言えば当然だが...。
リハが意外と早く終わってしまい、スタジオを出た後も打ち合わせなどが無かったので、この後友人に誘われ一度は断った映画「オールド・ルーキー」の試写会に向かう。会場は白金の八方園。ここは十数年前に友人の結婚式で来て以来だ。「八方園の中には映画館まであるのか。すごいなぁ」等と思いながら入場すると普通の広〜い部屋にスクリーンが垂らされ、白いクロスのかかった如何にも結婚式場っぽい横長のテーブルがずらっと並んでいる。テーブル付きの試写会とは面白い。その理由はすぐに解った。この試写会は○○ールがスポンサーなのでお客さん全員にスープのサービスがあるのだ。しかし所詮○○ールのコーンたっぷり添加物たっぷり粉スープ。不味くて全部は飲めなかった。本編の前に○○ールのCMをこれでもかと見せられたのも参った。映画はとてもいい映画で野球小僧出身の私には堪えられないモノがあった。「あ〜ぁ、アメリカで野球がしたいなぁ」といった感じだ。テーブルに肘をつきながら映画を観るのは初体験だが大変楽チンである。他の映画館もテーブルをつけて欲しいものだ。
その後、同行した友人(男)と3時間ほど国際政治と日本経済(嘘)について大いに語り合い、家路についたのは午前様。アッという間に休日が終わってしまった。


沖縄料理屋 2002年11月20日

昨夜、イタリアに住む友人Kが久々に帰国したので『イタリアではなかなか食べられないもの』を食べさせてあげようと思い、近所の沖縄料理店に行った。
Kの話によると「ローマはいま空前のアジアブーム」らしい。特に『日本の文化』に地元ローマっ子たちは興味津々だという。そんなわけで「是非ローマで島唄のライブをやって欲しい」という。私も是非やってみたい。しかし如何せん遠い。Kによると地元のイベンターとも懇意だから紹介するというが、ちょっと怖いなぁ...。
そんな話をしていると常連客である沖永良部出身のS山さんがシャミを持って近づいてきた。この人、今まで何度もこの店で会っているのに毎回「はじめまして」という。私が会う時はいつもかなりいい感じに酔っぱらっているので無理もないかも知れない。「何か弾きましょうか?」というので「では沖永良部のイキントー節をお願いします」というと「それは出来ん。沖永良部風の“黒だんど”をやらせてもらう」といって唄いだした。
初めて沖永良部風の“黒だんど”を聴いたが、沖縄っぽい雰囲気が加わりまたひと味違った感じがしてとても良かった。
この後、S山さんと私で数曲楽しんだ。友人のKもS山さんのキャラクターをすっかり気に入ってしまい「楽しかった」と言って帰っていった。


本門寺 2002年11月7日

昨夜、朝崎先生のマネージャーさんから連絡があり「12/20に池上本門寺で開かれるコンサートに朝崎先生が出演されるので伴奏をして欲しい」と言われた。
私は大田区馬込出身なので池上本門寺は地元である。小学校1年生の遠足も本門寺だったし、5〜6年生の時に毎日早朝野球をしたのも本門寺グランドで、足腰を鍛えるという目的であの長い階段を何度も往復させられたものだ。中学生の頃は本門寺近くの塾に通っていた。また高校生の頃から今まで毎年欠かさず年始のお参りに行くのも本門寺である。そんな思い出のたくさん詰まった本門寺で演奏できるとは...感無量(ちょっと大げさ?)である。
まだ詳細は聞いていないのでヌカ喜びは出来ないが...。


唄遊び 2002年10月23日

ここのところ、祖父が唄遊びで三味線を弾いているビデオやカセットテープを聴きまくっている。独特の<注1>グイン(御韻)が随所に入ったシャミの音は何度聴いても惚れ惚れしてしまう。彼が生きているうちに三味線を教わらなかった事が悔やまれてならない。
そんなこんなで、古いカセットをいろいろと物色していたら『99年6月○○さん』と走り書きしてあるテープを見つけた。これは祖父の死後、シマから親戚が何らかの用事で上京した時に開催された唄遊びの録音である。数十名の在京シマんちゅにグルリと囲まれて、三味線を初めて間もない私がひたすら伴奏をする状況が収められている。シャミを始めて半年とはいえ、朝崎先生の伴奏者としてデビュー(?)していたのにもかかわらず、自分の演奏が意外と下手だったのには驚いた(笑)。あれから3年とちょっと経つが、今は少し上達しているようである。

<注1>唄声や三味線の音の『味わい深い部分』をシマんちゅは『グイン』と呼ぶ。演歌で言う『こぶし』とはちょっとニュアンスが違う。


シマ唄稽古 2002年10月20日

昨日は朝崎シマ唄教室に参加してきた。朝から午後2時まで目一杯仕事をこなしてから急いで稽古場に向かったせいか、仕事疲れに喉の痛みと睡眠不足が重なって唄もシャミもヘロヘロだった。最近すっかりお疲れモードである。
さて、今回の稽古は新規の参加者が3名。そのうちの一人はなんとCD『詩島』プロデューサーの永田氏だった。シマ唄教室は初参加というが、さすがに音感が優れている人なので複雑なシマ唄のメロディーをキチンと把握して唄っていたのには感心した。(上手いかどうかは別問題として・笑)

永田氏から聞いた面白い話を一つ。
CD『詩島』のミックスダウンをした時、音響技術者はシマ唄初体験だったそうで、朝崎先生の声を聴いて「この人は30代の人」、中くんの声を聴いて「この人は50代の人」、と思っていたそうである。頷ける話だ。


島遊び 2002年10月19日

昨日・一昨日と喜界島・川嶺集落では『島遊び』が行われていた。私は2000年から二年連続で参加していたので今年も行く気満々だったのだが、親戚の不幸があったりシマの親戚宅の都合が合わなかったりしたので今回は泣く泣く断念した。
昨夜は島遊び二日目だったので「川嶺はたいそう盛り上がっているだろうな」等と思いながら、気を紛らすために牧岡奈美(喜界出身)のCDや祖父のテープ棚にあった『川嶺集落の八月唄(96年録音)』などを一人寂しく聴いてしまった。


風邪 2002年10月5日

9/20、27、10/4と3週連続で金曜日のライブに出た。すごく疲れた。
気候が急に寒くなったり暑くなったりだったので先週あたりからすっかり風邪を引いてしまったのだ。一時は38℃を越えてしまった熱もなんとか下がり、喉の痛みも薬を使わず自然治癒力に任せてどうにかなくなったのだが、どうも体がすっきりしない。昨夜の結ま〜るライブは特に辛かった。演奏をほとんど聴かず喋りっぱなしの<注1>酔っぱらいが数名いたせいも多少あるかも知れない。しかし人のせいにしてはいけない。
楽器の演奏と違って声は体調の善し悪しが如実に現れる。『真の唄者になるには体調管理も怠ってはいけないのだ!』と、自分を戒めた日であった。なんちゃって。

解説:
<注1>その酔っぱらいとは別に最前列で大人しく聴いていた男性が、ライブ後になって「言葉が全然解らないからつまらない。標準語で唄ってくれればいいのに」と言ってきた。これには返答に困った。この人はEクラプトンにも「英語が解らないから“レイラ”を日本語で歌ってくれ」と言うのだろうか。おっと、いきなり大御所を引き合いに出してしまった。


指笛 2002年9月19日

9/17、東京ドームに巨人対横浜戦を見に行った。試合は9回裏に阿部の逆転サヨナラヒットで巨人が劇的な勝利を収めた。それはいいとして、私が驚いたのは指笛(ハト)を吹く人が多かったことだ。選手が良いプレーをするとどこからか指笛の音が聞こえる。それも一つや二つじゃない。おそらく30人くらいは吹いていると思われる。55,000分の30人だから大した数ではないかも知れないが、太鼓やラッパでガンガン応援している中でも指笛の音はハッキリとわかるし球場の隅々に響き渡るのだ。指笛って素晴らしい。
因みに私も阿部がサヨナラヒットを打った時に指笛を吹いてそのプレーを讃えた。すると前に座っていた見知らぬおばさんが振り返り私を睨んだ。耳元でうるさかったのかも知れない。


藤が丘→原宿 2002年9月16日

アポラン藤が丘3周年記念イベント昨日(9/15)はハードだった。
まずは田園都市線・藤が丘駅前で行われた『アポラン藤が丘3周年記念イベント』に参加。駅前特設ステージにて午後2時と4時、二回の演奏をこなす。第一部は子連れ家族がたくさん見に来ていたので「子供は喧しいからやりづらいかも」と心配したのだが、シマ唄にあわせて踊る子あり、最前列で珍しい三味線やジャンベをジッと見入る子ありと、子供たちはこちらが驚くくらい我々の演奏に興味を持って見てくれた。演奏が終わった後も三味線や太鼓に興味津々で我々の後をズッと追いかけてきたのには少々困ったが。
4時からの第二部ではガラリと客層が変わって年輩の夫婦が多く、この人たちは私のする曲の解説を真剣に聞いてくれ、それはそれでとてもやりやすかった。演奏も最後の曲になった頃、客席の隅に初老の女性が座ったまま手踊りをしているのが見えた。後になってその人から話しかけられたのだが、喜界島の生まれだとの事。「まさかこんな所でシマ唄を聴けるとは思ってなかった。懐かしかったワ〜」と、たいそう喜んでくれたので、我々も嬉しかった。

フライヤーさて、藤が丘での出番が終わると、この日“飛び入り”を依頼されていた東京・原宿でのパーティ会場に向かう。
焦っていたため、藤が丘で主催者から戴いた差し入れのおにぎりを会場に忘れてきてしまった。あまりの空腹に耐えきれず途中のコンビニでブリトーを買って食べながら渋滞の246号線を上る。
原宿の会場に到着するとお客さん50名くらいのうち半分くらいが外国人で既にみんな盛り上がっていた。まずはブラジル人のシルビオさんがボサノバやサンバを歌う。ゴタンのギターを弾きながら歌うのだが、演奏も歌も素晴らしい。遅れて相方であるフランシスさんが合流。彼の叩くタンバリンに度肝を抜かれる。実はこれブラジル音楽で使うタンバリンで『パンディーロ』と呼ぶらしい。しかし、あんな叩き方は初めて見た。カッコ良すぎる。
この後DJタイムを挟んで我々の出番となる。「ブラジル&キューバ音楽のパーティに奄美島唄が乱入してもいいものだろうか...」なんて思いつつも「主催者に頼まれたんだからいいや!」と開き直って演奏をした。

すると外人さんたちは(おそらく)初めて耳にするシマ唄に「Great!」「Wonderful!!」などの歓声をあげて盛り上げてくれる。最後の『六調』ではフランシスさんのパンディーロも加わり場内はサンバのような乱舞に。アンコールを戴いたのでシルビオ&フランシスとセッションすることになり、最近南米で流行っている『島唄(by The Boom)』を一緒に演奏した。曲はボサノバ風にアレンジされていたがキーさえ合えば何とかついていけるものだ。
演奏が終わると一人の女性が近づいてきて「お礼にキスをしたい」と英語で言う。早口の英語を自分の都合いいように聞き間違ってしまったのかと思ったが、どうやら聞き違いではなかった。そして、私と奈良氏はありがたく頬に「チュッ」とその“お礼”を戴いた。(こんな経験は初めてである。頑張っていると良い事があるものだとしみじみ思う・笑)

そんなこんなで今回いろいろな外国人ミュージシャンやプロデューサーとも知り合う事が出来てとても楽しかった。
特に『Artsts Without Borders(国境なきアーティストたち)』のスタッフとも知り合うことができ、今後の展開が楽しみである。


FM世田谷(窓からは世田谷区を一望できる)FM世田谷 2002年9月11日

9/9(月)、相方の奈良氏と一緒にFM世田谷に出演してきた。ローカル新聞デビューに続き、ローカルFMデビューである。
スタジオは三軒茶屋の新名所『キャロットタワー』最上階にある展望フロア、その片隅にある。三軒茶屋周辺には高い建物がないので、その26階展望台は非常に高く感じられる。素晴らしい眺望だ。

生番組『オープンサロン834』のMCは23年前に『私のハートはストップモーション』でブレイクした桑江知子さん。桑江さんは沖縄出身という事もあって最近では琉球民謡も唄い、三線も弾くらしい。6月には我々のライブに足を運んでくれ、その時に「今度、私の番組に出て下さいね」と言われたのだが、今回それが実現したのである。
ともあれ、ラジオ初出演ながら「生で30分」もの場を戴いたので、「どうなることやら」と思っていたが、桑江さんのMCのお陰でさほど緊張する事もなく、トークに演奏にと楽しませて戴いた。
番組中、朝崎先生のCD『詩島』から私と奈良氏が参加している『一切朝花』を紹介。そして生演奏では『ちんだら三部作』と『朝花節』をやらせて戴いた。『ちんだら〜』では桑江さん始め、ラジオブース内のスタッフや外にいる一般のお客さんたちまで立ち上がって曲に合わせて手拍子をしてくれたりと、なかなかの盛り上がりをみせた。


ローカル紙 2002年8月21日

先月、阿佐ヶ谷・グルくんでのライブの際、写真をバシバシ撮っている人がいた。あとで自己紹介してもらうまで全然知らなかったのだが、南日本新聞の記者だという。その後取材を受けた。そして8/19、それが記事になった。ローカル紙とは言え、これが私の新聞デビューである。
しかし悲しいかなそこで私は“よそ者”として扱われていた。(年齢は7つも間違って書かれていた。)
島唄と出会って3年半、自分なりにどっぷりと島唄に使った生活を送ってきた。もちろんまだまだ若輩者のペーペーではあるが、体に4分の1は喜界島の血が流れているという自負もある。それでも地元の新聞記者から見ればただの“よそ者”だったか...。
あの記事を読んだ方に「東京モンが流行を追って島唄なんぞ唄いおって!」なんて思われはしないだろうか。気になる。
ペンは剣より強し。もう少し違った感じで取り上げられたかったなあ...。


テレビ 2002年8月18日

8/17(土)TV東京のオンエアーを見て、少々残念だった。朝崎先生や私の出番が少なかったからではない。
当初この番組に関して取材の依頼を戴いた時は「こだわりを持って東京で島唄の活動している人」を追いかける番組を作る、という話だった。
しかし、オンエアーされたものは島唄に取り組むシマ在住の若手唄者をメインに取り上げていた。それはそれでとても興味深かったが、そんな番組は今までいくらでもあったのだ。担当のディレクターさんがとても良い人だったので、余計に残念である。


盆踊り 2002年8月4日

昨夜、近所の盆踊りを見てきた。浴衣を着た老若男女が幾重もの輪になって踊る姿はいつ見ても良いものである。曲は炭坑節など定番曲に加え、新作民謡も踊りと共に紹介されていた。
ところが、なぜだろうか。昔は盆踊りの「ドドンがドン」というリズムを聴いただけで心がウキウキした私だったが、奄美の八月踊りを知ってしまった今では東京の盆踊りがとても洗練されたものに聞こえてしまい、ちっともウキウキしないのであった。


取材2 2002年7月27日

昨夜行われた荏田でのライブにはテレビ東京の取材が来ていた。ライブ中も撮影していたが、終了後にお客さん達や朝崎先生が長いインタビューを受けていた。いい形でオンエアーされてほしいものだ。。※放送は8/17(土)23:00〜テレビ東京(12ch)です。チェキラゥッ!

そういえば読売新聞でも奄美島唄の特集記事を載せていた。やはり本当にシマ唄があちこちで話題になっている。3年前では考えられない事だ。


取材 2002年7月20日

先月(6/19)ウエルカムバックでのライブには朝日新聞の取材がきて、朝崎先生、(CD詩島の)永田氏、私の3名が長々と<注1>取材を受けたが、今度は私の所にテレビ東京が連絡してきた。毎週土曜夜に放映されているドキュメント番組で「奄美島唄にこだわりを持って取り組んでいる東京在住の人」を取り上げたいという。とりあえずプレ取材というか一度会う事にして話をしてみると、私のような若輩者がしゃしゃり出るより、やはり重鎮・朝崎先生を紹介した方が良いと感じたので「私がいつも一緒にやらせて戴いている唄者・朝崎郁恵さんを紹介します」と言って連絡先を教えておいた。
最近、朝崎先生の元に取材攻勢が凄いという。TV、雑誌、ラジオなど各メディアが島唄の素晴らしさに気づいたと言う事だろうか。
今朝(7/20)も何気なくTV(TBS)を見ていたら、ホンジャマカ恵が朝崎先生のニューアルバム「うたばうたゆん」を紹介していたので驚いた。
昨日の結ま〜るライブも大入り満員だったし、これが単なる一過性のブームで終わる事の無いよう祈るばかりである。

解説:
<注1>7/4日付け朝日新聞夕刊に「奄美の島唄、心ゆさぶりブレイク」という記事が出た。記事になったのは朝崎先生だけだったがウエルカムバックでのライブ画像がデカデカと使われていた。


マイ三味線(2) 2002年7月16日

新しいシャミを買ったと書いたが正確に言うと棹だけを購入した。安価で軽量な割には程々の強度があるユスの棹が以前から欲しかったのと、胴部分を始め糸巻きやウマなどの細かい部品はうち(祖父宅)にたくさんあったので、宴会の座などに呼ばれた時に気兼ねなく取り回しがきく三味線を一つ作っておこうと思っていたのだった。私はいつも祖父の形見である高価なシャミをあちこちに持ち歩いていたので、盗難や破損などにいつも神経質になっていた。祖母は「形見の三味線を気兼ねなく使いなさいよ」と言ってくれたが、なかなかそうもいかない。
そこで今回の<注1>沖縄行きでは「ヒージャを喰う」の他に「棹を探す」というテーマであちこち物色してきた。
結局沖縄では購入せず、こちらに帰ってきてから祖父が生前おつき合いしていた徳之島の三味線店に電話で問い合わせたところ「ユスの棹ならある。他の部品を送ってくれれば棹の代金だけで組み立ててあげる。作業代は要らない」と言ってくれたので、ありがたくお言葉に甘えさせて戴いたというわけだ。
ところで、祖父宅には人工皮を張った胴がいくつかあったのだが、それらにはマジックで「赤木」と書いてあった。これらの胴は天然皮が張られているわけでもないのになかなか音が良い。おそらく安物の本皮より良いと思われる。皮の張り方が良いのか、赤木という素材が良いのかはよく解らないが、とにかく良いシャミが安価で手に入り非常に満足している。

解説:
<注1>6/23〜26まで沖縄本島に行きました。琉球弧旅日記を参照下さい。


マイ三味線 2002年7月14日

以前から欲しかった人工皮のシャミを買った。買ったというか、徳之島の三味線店にお願いしていたのが今日届いた。人工皮にしてはなかなか音がよい。これから雨の日のライブや宴会の場など、高価なシャミを持ち歩きたくない時に活躍してくれそうだ。


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